群青のマグメル ~情報収集と感想

『群青のマグメル』と第年秒先生を非公式に応援

群青のマグメル第45話感想 ~心動かされる相手

2017/10/08 翻訳について下部に追記

第45話 合構 20P

追記 原題:亚伯撒斯 (直訳:アスス)

前半は戦闘パートというよりも戦闘仕立てでの神明阿の構造者たちの解説パートですね。

壱八獄中隊の構造者は人類の中での精鋭なのは間違いありませんが、3人がかりでもヨウの足元にも及びません。相手になれるのは黒獄以上の実力者だけのようで、神明阿一族が巨大組織ではあってもこと戦闘に限るならヨウたちにも勝算が見いだせないわけではなさそうです。

合構についての説明は、今までの描写から推測しつつも言葉として確認しておきたかった内容を簡潔に抑えていて、バトルものとしてワクワクします。また、説明の回想でヨウ・ゼロ・クーの3人が火鍋子を囲んでいるですのが、こういうちょっとした日常描写にいい味わいが出ているのがみんなキャラが立っていることの強みです。ビルの屋上で鍋をやっているというだけでもなんだか楽しそうなのですが、クーだけが二段重ねのブロックらしきものの上に座っているのが余計に面白いです。クーは高いところが好きですからね。あるいは聖国真類には食事中に地べたに座るのを好まない習慣があるのかもしれません。

ヨウは壱八獄中隊の構造者を手早く格好良く倒すのですが、その後にやるのがよりによって財布のかっぱらいです。ヒドイです。正義を自分の都合のいいように解釈して利用しているのがさらにヒドイです。間違ってもコイツは正義の味方じゃないな。ただ、ヨウは社会正義・一般常識からは完全に外れた人物ではあっても、ヤクザなりの仁義というか無頼漢なりの筋というかがあるのは今までもちゃんと描写されています。常にどこかしら逸脱しつつも情があるところがピーキーな魅力であり、そんな人物を主人公としているのが『群青のマグメル』という作品の面白味です。またヨウの人物像を考える上で踏まえておきたいのが後悔に満ちた拾因の姿です。拾因はほぼ間違いなくゼロとクーを、あるいはビックトー親子とティトールをも失ったヨウなのです。飄々とし何にも縛られないようにふるまいながらも、血の繋がらない家族を失ったことでどれだけ彼の心が揺さぶられ、そして避けられぬ死に臨む決断に至ったのか、それは現在のところただ想像することしかできません。それでもなおさら、私は拾因がそう望んだようにヨウがヨウ自身として幸せになることを願いたくなってしまうのです。

そして後半は神明阿アススとトトの対話パートです。

トトは実の父と共有した夢を大切にするだけでなく、その夢に基づいて見ず知らずの相手の幸せにさえ喜びそのために行動できる心を持っています。トトはマグメルで幾度となく危険に巻き込まれ、人間から強盗にあう描写さえ何度もあり、彼女の言葉は決して世間知らずな綺麗事ではないのです。

そんなトトに対して、神明阿アススはトトのように良い人間だった妻を殺害した過去を告白します。アススの妻は性格や表情の印象だけでなくいわゆるアホ毛までトトと印象が重なるように造形されています。アススは特別な人間ではあっても血の繋がらない家族にすぎない妻を殺しても何ら心動かされることはなかったと語ります。強さを得た対価に心が動かなくなり、血の繋がる家族としか繋がり得ないとも。そしてそれらは彼の中では真実なのでしょう。ただ、そんなことを初対面のトトに告白してしまったのは、妻の面影のある女性と出会って彼の中の何かが揺らいだからに他ならないのではないでしょうか。

ヨウ、トト、神明阿アスス、この3者の「家族」に対する思いがどう絡み合っていくのかが、今から楽しみです。

それにしても神明阿アミルと神明阿アススは顔が全く似ていませんね。アミルの小さな瞳孔が実線で囲まれた目と、アススの眉頭の太いカマボコ型の眉と彫りの深い目鼻立ちは、特に違いが大きいように感じます。

実は『群青のマグメル』にはアススと同じ瞳と眉を持った人物がもう1人登場しています。

左の手の甲に神明阿直系の家紋を刻んでいるアススに対し、左の手の平に神明阿直系の家紋を刻んでいる彼が本当は誰なのか、私ももう一度詳しく考えてみる必要がありそうです。

 

今回ちょっとだけ気になってしまったのが神明阿アススの台詞の「動かぬ心~対価なのだろうなぁ」です。文脈上絶対勘違いしようがないとはいえ、ここの文字だけを見た場合は逆の意味に捉えられかねないと思います。

あと書き忘れの追加を。前回トトが脱臼したのは左腕となっていましたが、前回暴漢に引っ張られたのも今回痛がって抑えていたのも右腕であり、誤植でしょう。

 

翻訳について追記

日本語版で

「だが実行してみたらなんてことはなかった」

「殺す前も殺した後も鼓動が乱れすらしなかった ただの1つも……な」

「動かぬ心それこそが…」

「強い力と引き換えに儂が神に差し出した対価なのだろうなぁ」

と翻訳されている部分は、動かぬ心を対価として差し出した、つまり妻を殺した後で強くなり今は心が動くようになったと読めかねないと上でも軽く触れさせていただきました。

中文版では

「可我连心速都没有变化,」

「杀她之前和之后,没有任何改变。」

「这大概便是……」

「获得了强大力量,而付给神明的代价吧。」

であり、直訳すると

「だが胸の鼓動の変化さえ儂には現れず」

「殺す前と後とで いかなる変化も現れはしなかった」

「おそらくそれこそが……」

「強さを得るために神へ支払った代償だったのだな」

となります。

中文版ではそれ(=妻を殺すことで現れるべき心の変化)を神へ支払った、つまり当時は既に強くなっており今に至るまでずっと心に変化が現れることはないという内容が引っかかり無く読み取れます。

また

「神明阿直系の家紋!?」

 となっている部分は

 「未神明阿直系家族的斑纹!」

 であり、「斑纹」という言葉のニュアンスを考えるに、上祖様の左の手の甲や若様の左の手の平のあの模様は、刺青などの人工的に刻まれたものでなく、一族の直系だけに生まれつき備わっている特殊なアザのようなものなのかもしれません。

群青のマグメル第44話感想 ~殺る気

第44話 潜入 20P

追記 原題:十八狱中队 (直訳:壱八獄中隊)

扉絵は並んで進むヨウたち5人と遠くの後ろ姿の神明阿アミルという構図がいずれ訪れる激突を予感させるものになっていて、新編の開幕にふさわしいものになっています。白系のスーツと床に落ちた黒い影の対比もバッチリ決まり、クールな中にも力強い印象があります。アオリ文の「我行我素」もいい味を出してますね。中国語の四文字熟語には欧文系の厨二感とはまた違った厨二感があっていいものです。意味は「自分のやり方を貫く・我が道を行く」となります。

扉絵を見る限りではミュフェはクーに付き添って人界にやって来るようです。デュケは性格から考えてもマグメルに残ってそちらの現状を伝える役割となりそうです。

今回は潜入編の導入ということで嵐の前の静けさを感じさせる回ではあるのですが、ヒリヒリとする不穏感の強さに期待が煽られます。

まず海底からの侵入という刺激的なシチュエーションを静謐かつ空間的なレイアウトによる演出が見事に盛り立てています。その最中にヨウが察知した深い闇の向こうにある何か、それがこの先の展開にどう関わってくるのか今から楽しみになります。距離的にはだいぶ離れていますが、島の地下に建造物があることと併せて考えると、もしかしたら巨大海底遺跡があるかもしれないと言った想像が膨らみワクワクします。

また静かな中にも当たり前のように暴力がひしめき殺意さえもありふれている空気感の描写が緊張を高めてくれます。トトがガラの悪い探検家チームに取り囲まれる場面はコミカルな演出をされてはいるものの結構シャレになっていない危険さです。それに周囲が取り立てて騒ぎ立てる訳でもない様子も、カタギの人間ではない探検家という存在を改めて感じさせてくれます。そして一転して探検家たちが直前まで弱者と思い込んでいた老人に文字通り瞬殺され、むき出しの惨事が突きつけられます。私は前回素性が判明したばかりの神明阿の上祖がいきなり探検家に混じっているとは想定していなかったこともあり、この不意打ちにはいろいろな意味で驚かされました。地位のある老人ということでてっきり腰の重いキャラだと思っていたのですが想像以上に行動派ですね。弱い老人の演技をする茶目っ気やトトに対して友好的に接する点と大勢の探検家の四肢を飛び散らせて平然としている点の落差が思考の読めなさを生んでいて、次の行動が気になるキャラです。

一方でヨウは神明阿の役付きの構造者からパスを奪うため、招待を受けただけの探検家も含めて片端から構造者を昏倒させていきます。少年漫画の主人公らしからぬダーティな手段ではありますが、乱闘を当然のこととする空気感とスマートに事を運べるわけではないという状況の提示が、反則の優越よりも生命に肉薄するスリリングさを際立たせているのが興味深いです。ヨウの挑発を受けた役付きの構造者たちが反抗分子の報告よりも売られた喧嘩を買うことを優先するあたりのチンピラ感もなかなかの暴力性です。ラストのコマは四者のポージングも構図も格好良く仕上がっていてドキドキさせられます。元より無法の側に身を置いていたとは言え、日常を送っていた拾人館にしばしの別れを告げたヨウが、人間同士の陰謀と暴力の世界に踏み込もうとしている一瞬が切り取られたコマです。

今回は潜入ということでヨウの衣装替えも行われているのですが、空気感に合わせて装備も今までのイメージを大きく崩さないままよりリアル調のものになっているのが面白いです。上半身の黒い服・帽子・手袋という服装にマスクが加わることで、拾因やあちらのヨウを彷彿とさせる取り合わせになっているのにもニヤリとさせられます。

群青のマグメル第43話感想 ~線引の決め方

2017/09/24 下部に翻訳と内容について追記

第43話 1ダースと少しの安息 20P

追記 原題:倒计日 (直訳:カウントダウン)

ヨウのゼロとの世界旅行での会話を通じて、共に旅をした拾因へのヨウの思いが形になって表されます。ヨウの初めての友達であり師であったという拾因。別れを予感させる陰を纏っていたという拾因。ヨウにとっても思いを言葉にすることで改めて自らの気持ちを探りつつ自覚していくところがあるように思えます。

そして拾因の死に気持ちの整理をつけた上で、拾因の生きた意味である彼の願いを受け継いでいくと明言します。実際に世界を見て回りつつ発した「世界を救う」という言葉にはヨウの決意の重さを感じます。思いを決めた時の、成すことと成せないことを定めた時の、爽やかさと淡い寂寥感のあるシーンです。ここでこれほどヨウが線引をきちんと出来ているからには、実体を持った拾因との再会はもう無いものと思った方がいいでしょう。

また、ヨウは人類の統治者である神明阿一族への敵対を決断したからには、ゼロと別れてこれまでの生活を続けることを諦めるつもりだったようです。あるいは生きぬくことそのものを。かつての拾因も同じ決断をしたのかもしれません。しかしここではゼロの方がヨウを諦めませんでした。ゼロの発言はご主人様に付き従いたいと見えるのか少爷(坊っちゃん)を守りたいと見えるのかで読者にとってニュアンスが随分と変わってきますね。ゼロとしては自分は大人でヨウを守れるつもりのようです。ですがヨウと読者にはそう言われるほどにゼロの幼気さがしみてしまいます。だからこそヨウはゼロを守り共に生きぬくことへの決意を新たにするのです。大勝負に臨んでのこの前向きな決意には、かつて避けられなったはずの破滅的な結末とは全く異なる結末へたどり着くことへの希望を強く感じました。

一方でクーは任務失敗の罰により男女3人素っ裸でバラエティ番組の熱湯風呂氷風呂めいたものに入れられつつ、ヨウは自分に利用されているだけだという笑撃の発言を繰り出します。逆では?という点は置いておくとしても、この期に及んでもクーがヨウときちんと一線を引けていると考えているらしいことに微笑ましくなってしまいます。傍から見ると不適切な馴れ合いという段階さえ明らかに超えているのですが、クーの性格を考えるにミュフェを誤魔化しただけでなく半ば以上本気で言ってるのでしょう。クーにとってヨウとの接触で自分は既に十分に得をしているのだから、自分達の行く末にまでは巻き込みたくはないというのはまだ変わらないようです。その上で情報を得るためというお題目を唱えつつ、ヨウの神明阿への潜入に加わるつもりなのが面白いですね。罰が終わってから人界へ向かうとするとやや遅れての合流となるのでしょうか。

マグメル深部の聖国真類の社会の一端が描写されていますが、居住地の規模的にも上層部の合議の様子からも、ステレオタイプな未開の部族ではない国家然とした印象を受けます。むしろ発展し巨大化した組織にありがちな腰の重さが心配になってしまうほどです。任務を失敗した者に罰を与えつつも必要以上の問責はせず、成果については評価するということからも、治世は現在のところ大きな滞り無く行われているようです。族長を含めた強者会の6人は、多少外見がリファインされてはいますが第32話で車座になっていたあの6人でしょう。

他方で神明阿一族が装置の中から目覚めさせた老人たちの描写もあります。500年前の神明阿一族の上祖だという彼らがどう展開に関わってくるのかはまだ読めませんが、いかにも中華の老人キャラ風な只者ではない雰囲気を纏っていて気分が盛り上がります。首領格らしい1人以外も顔の個性がしっかり描き分けられているのが逆に共通して目が死んでいる点を際立たせていておどろおどろしいです。

私が今回出た情報で一番気になっているのが拾因の明かした聖心を暴けば世界が滅ぶという言葉です。もちろんこれはヨウの一番の敵が神明阿一族だと確定させこの先の展開の指針を示す上で重要です。原皇の役割をヨウVS神明阿一族の構図にちょっかいを出す第三者ポジションと見なせることになり完全な三つ巴よりは勢力関係が把握しやすくもなりました。しかしむしろ私が引っかかっているのは、拾因の言葉が実際に世界が滅んだのを見たことがあるような迫真性を持っている点です。拾因の世界がやはり誰かが聖心を暴いたせいで滅んでいるのなら、「世界の敵」である拾因はそれにどう関わっているのでしょうか?

 

追記と翻訳について

日本語版では「もしあの人にあったら ずっと守ってやってくれないか」となっている台詞は、

中文版では「若遇到那个人,就一直守护下去。」であり、

やはり第31話の日本語版で「もしあの人を見つけたら その時は頼むよ」となっている台詞と同じ中国語の文章から、異なる言い回しで翻訳されたものだとわかりました。

また「共に生きて共に死ぬ」という部分は「一起生,一起死」であり、中文版では第2話の「一緒に生きて一緒に死ぬ」と同じ表現であり、ゼロの発言はこの時の会話を意識したものだと確認できました。

4142・43話は第234話でテーマの一つとなった「一起(一緒に・共に)」という言葉が再び取り上げられ、ヨウと拾因・ゼロとヨウ・クリクスと彼の幻想の家族という関係と、クリクスと彼の現実の家族・ゼロと主様という関係の対比を改めて明確化して、「家族」の形について問い直す内容となっています。

これ以外にも第2・3・4話では人知を超えたマグメルの宝としての実、拾人者としてのプロ意識、怪物よりも怪物である人間とそれ以上に怪物であるヨウなど多くの点で重要なモチーフの再提示が行われています。さらに「家族殺し」や「夢と欲望の相克」という現在焦点となっている題材も既に示されていて、『群青のマグメル』の主題が初期から一貫していることを深く感じました。最初にこの3話を読んだときは日本語版では内容を掴みづらかったこともあり取っ付きにくい内容だと感じる部分もあったのですが、今読むと話の本筋に入る前の導入の時点でテーマを凝縮して強く提示しておこうという意図があったのだとわかります。

ところで、私は今回の日本語版を読んだ時点では聖心が誰かに暴かれれば無条件に世界が滅ぶという内容だと思っていたのですが、中文版を読む限りではどちらかと言うと聖心を暴こうとする人間が現れたらその人間が世界を滅ぼしてしまうだろうという内容であるようです。もしかしたら黒い瞳のヨウは聖心を暴いた何者かによって元々の世界を滅ぼされた後、どうにか生き残って自らも聖心の力を手に入れ、並行世界への移動か数百年かけての世界の復興に力を利用したのかもしれません。

群青のマグメル第42話感想 ~拾人者の歩む道

2017/08/27 翻訳について下部に追記

第42話 出会い 24P

追記 原題:又零之刻 (直訳:ヨウとゼロの時間・軌跡)

 

『群青のマグメル』第4巻が7/4(火)に発売されました

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 ゼロの過去は「超能力者・超人の悲哀もの」として必要な要素が的確かつ王道的に押さえられていて、短いながらも胸に迫る描写となっています。揺るぎない表現力と積み重ねられたゼロというキャクターに対する愛着とが、定石的であるが故のストレートな切れ味を高めています。6P1コマ目の天井と設備の描く曲線の悪夢的な効果と7P1コマ目の表情が示す闇はとりわけ強い印象を残します。また読者にとっては当然となりつつあった構造者というものがやはり異端の存在であることが再提示されます。

こうした酷薄で弱肉強食な『群青のマグメル』の空気感の中で活きるのがヨウの空気の読まなさです。どんな状況でもどんな出自の相手でも普段と何の変わりもなく接せるという常人離れしたヨウのマイペースさは、単に身体能力や構造力が高いこと以上に今回だけでなく今までも多くの相手の救いとなってきました。こうした資質こそが優れた拾人者の能力でもあるのでしょう。ヨウを慕い続けたゼロとの想いが理解できるようになった時に、私たちもヨウという人物の魅力を改めて感じることが出来ます。そしてヨウに拾われたことがゼロへの救いであったように、ヨウにとってもゼロを拾ったことは拾人者へ進むことを決意させる最終的なきっかけとなり人生の転機となったのです。ヨウの初めての拾人者としての仕事の相手こそがゼロでした。

その一方で改めて描写されているのが、ヨウの強さと価値観の恐ろしささえ抱かせるほどの人並み外れぶりです。ゼロに死を感じさせた強大な怪物を本能的に従わさせる程に強力で、無情な大人を一切の呵責無く打ち倒す、そんな12歳前後の少年であったヨウ。普通ならばやっと小学校を卒業したかどうかの年齢らしい顔立ちの幼さと、敵と見なした相手へ向ける態度と眼差しの冷淡なまでの老成。今回の乾ききった眼差しと「人を人として扱わない奴は… もう人とは呼べないね」という台詞で思い出されるのが、第4話でクリクスの兄と対峙した時の姿です。その時にヨウは皮肉にもクリクスの兄から「本当に人間か!?」と毒づかれてもいました。今回は意図的に殺害するほどには激怒していないでしょうが、ヨウは彼が必要だと判断した時には我を忘れずとも人を殺す判断ができます。できてしまうのです。ヨウは拾因に出会う前には既に人を殺したことがあったのかもしれません。いつもは明るく振る舞うヨウだけに、ふと覗かせる深淵には心から肝が冷える心地がします。そして物悲しくもさせられます。ただ、ヨウへ向けられる「人間離れ」しているという評価とは、逆説的に彼が紛れもなく人間だということを物語ってもいます。本当の怪物にはわざわざ人間でないと見なす必要などありません。拾因が最後に拾った人間こそが、最後の拾人者としての仕事の相手こそがヨウでした。

最後の場面でヨウは5年前にゼロと出会ったときと同じように2人でこの先へと続く道を進んでいきます。ヨウにとっては5年前だけでなくそのさらに5年前、拾因と出会って共に歩むことになった時を思い起こさせられるような道のりであるのかもしれません。ゼロにとっては5年前よりもむしろ一時的に先取りした5年後と本当の5年後が気になる道のりであるようです。そして2人に未来があるならば、ヨウが主人公として彼の素質を十二分に発揮していけるのならば、この先も「5年後」は何度でも訪れて何度でも共に踏み越えていけるはずです。

 

今回少々勿体無いのが日本語版だとゼロのヨウへの呼び方が「ご主人」になってることで「主様」からの変化があまり意味のないものになってしまっていることです。中文版での呼び方は「少爷(坊ちゃん・ボンボン)」なので、単なる主従関係・隷属関係から開放されたことがはっきりしてるはずです。お金持ちっぽくて好ましいというヨウの言い分もよりしっくりきますね。

 

翻訳について

中文版の『拾又之国』の第42話を確認しました。

ゼロが虐待を受けた「主様」は中文版では「主人」です。中国語の「主人」は物体・家畜の所有主という意味合いが強く、作中でもゼロが「财产(財産)」扱いされていることが幾度か明言されています。

ゼロが忠誠を誓うべきとされた「未来の主」である神明阿一族を表すのは中文版では「未来的主人」・「真正的主人」です。

そして中文版ではゼロが「新主人」と見なしたヨウにそれを断わられ「少爷」と呼ぶように提案されることで主人・所有主がいなくなり、「零号」でなく「阿零」と呼ばれて1人の人間としての自由を手に入れるという流れになっています。それが日本語版ではヨウが「ご主人」と呼ばれていることで伝わりにくくなっているのは残念です。

また、中文版で「找到你…… 然后…… 就一直守护你哟……。」、日本語版で「君をみつけて… ずっと守ってって…」となっている台詞は中文版の第31話の「若遇到那个人,就一直守护下去。」を受けたものだとわかりました。

この第31話の台詞は日本語版では「もしあの人を見つけたら その時は頼むよ」となっています。しかし第43話の「もしあの人にあったら ずっと守ってやってくれないか」と元になる中文はおそらく同じでしょう。

前に出た台詞を伏線として活かすという面ではやや問題がありますが、新しい訳の方がより適切なニュアンスなので仕方がない面が大きいと思います。今となっては第31話での翻訳が悔やまれるばかりです。

群青のマグメル第41話感想 ~未来へ向かうために

第41話 バカンス 20P

追記 原題:去度个假吧 (直訳:休暇を過ごしに行きましょう)

2017/07/18 微修正

『群青のマグメル』第4巻が7/4(火)に発売されました

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第34話から休載の間もずっと心配させられていたクーたち聖国真類の未来が前回でひとまず希望を持てる状態になったことで、今回は展開の進行に一息ついてのバカンスとゼロの掘り下げへの導入の回です。

まずこれまでの展開への区切りとして一旦トトと別れるのですが、その際のトトの言葉は再開後からだけでなく今までの『群青のマグメル』のストーリー全体の総括になっています。

トトがここでマグメルの冒険へのロマンと希望を語ってくれたことには、改めて目を覚まさせられる思いがしました。最近の展開では神明阿をはじめとした欲望や陰謀絡みでの征服戦争のためのマグメル探検がクローズアップされ、私の関心もそちらへ向きがちでした。しかし未知への憧れと挑戦とはやはりロマンが溢れるものであり、少年漫画が追うべき夢の形でもあるのです。

また、今回の救助に感謝するだけでなく、ヨウの拾人者という生き方そのものを肯定する見方を示してくれたことにもジンとします。ヨウは人界ではどの権力の庇護も受けず、マグメルに関わるほとんどの人間が選ぶ探検家ではなく、ましてマグメルで生まれた原住者でもなく、どこからも独立して孤立しているようにさえ見える時がありました。ヨウ自身が第8話で自分の生き方を「賢い人間にはなれそうにない」と自嘲気味に評したのも彼をより寂しげに感じさせました。ですがそれは一面的な捉え方に過ぎなかったのです。拾人者の仕事とはマグメルで失われかけた命を人界の家族の下へ帰還させることであり、マグメルへ挑みたいという冒険者のロマンそのものを絶やさないようにすることです。マグメルと人界の双方に関わり、繋がりを守ることこそが現在のヨウが選んだ生き方なのです。これまでだけでなくこれからもそうあるために、ヨウは今彼自身が全貌の見えない相手へ挑もうとしています。そんな時に同じくロマンの支えになることを選んだ人間から応援され、別れてからふと見上げて気付いた空の広さ。それは何もかもを包み込んでくれるようなものだったのではないでしょうか。

その先に待ち受けているお楽しみが今回のメインイベント、未来を先取りした姿のゼロとのバカンスデートです。画的にはまるで高校生同士のデートのようで、青春映画的なムードに溢れています。成長後のゼロの外見年齢は15、6歳。スレンダーな体付きではありますが、涼やかな目元はむしろ肉体以上に大人びた印象を与えます。すらりと伸び、程よく肉の付いた太腿が眩しいです。日本の学校の制服風のコーディネートは女子高生の印象を強く読者に植え付け、児童どころかコマによっては幼児に見えていたゼロのイメージを一変させてくれます。特にトレードマークだった子供っぽい猫耳カチューシャをシャクヤク風の花飾りに置き換えているのが効果的です。一方で色は違うものの、プリーツスカート・丈が短くて手元が隠れるほど袖が長い上着・首元のタイというコーディネートが黒い瞳のヨウと共にいたゼロとほぼ同じなのがニヤリとできていいですね。

ヨウにとってもこの成長は衝撃だったようでなかなか面白いリアクションを取っています。あからさまにヨウを異性として意識しているゼロとは違い、ヨウのほうはゼロを純粋に家族だと見なしていそうですが、もしかしたらこの件で少しは見え方が変わってくるのかもしれません。ただ周囲から色恋を向けられてもひたすら朴念仁なヨウなので、たとえ関係が変わるとしても終盤の終盤でのことにはなりそうですが。

そして話の焦点はこれまでほとんど未解明だったゼロの過去へと移っていきます。ゼロの実年齢が11歳であることと、5年前に拾因からの依頼によってヨウが研究所らしい人工島から救出したことが判明しました。ゼロは年齢こそ見た目通りの子供でいいようですが、やはり「ただの」子供ではないようです。おそらく成長は普通にできているのでサイボーグなどの類ではなさそうですが、例えばデザイナーズベイビーであるとか身体に改造を施されているとか特殊な英才教育を受けたとか、何らかの研究の対象となっていたようです。

また私がゼロについて気になっていたことのひとつに、黒い瞳のヨウと共にいたゼロよりも見た目は幼いはずのこちらのゼロのほうがマグメルの冒険や財宝に対する態度をはじめとして大人びた言動をすることがあったのですが、それはヨウの違いから生じた影響によるところが大きいようだとわかりました。まず、拾因への憧れからヨウの拾人者という仕事への自負がより強くなったことがゼロの価値観にも反映されているようです。またこちらのヨウは保護者が得られたことでかなり弟気質な部分が出ていて、そんなヨウと支え合ってきたことでこちらのゼロはこましゃくれた世話焼きの妹的な性格になったと推察できます。さらに、黒い瞳のヨウとゼロの出会いはほぼ不明ではあるものの、拾因の依頼がないことからそのゼロは研究所の外に出られた時期が遅くて精神的な成長の機会が少なかった可能性もあります。ここで2人のゼロの違いが念押しされたのは、オーフィスの病死が明言されたのと合わせて、主要人物が皆二重に存在していることのヒントを改めて強く示すためでしょう。

ゼロについて今私がちょっと気になっているのが拾因が自分で救出しなかった点です。これから共に生きていくことになるヨウに助けさせたかっただけかもしれませんが、何か別の事情もあるかもしれません。

他方で、ゼロの研究との直接的な関連は不明ですが、神明阿によるマナナンバスティオンでの人体実験の描写があります。この装置は第32話に出てきたものと同一のものです。長身の実の保存装置と連続して描写されることでコールドスリープの解除実験であるのが示唆されていますが、目を覚ました老人たちの正体とは何なのでしょうかね。

鬼の話 ~群青のマグメルにおける境界線

本日7月4日は『群青のマグメル』第4巻の発売日です。

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というわけで『群青のマグメル』にまつわる小話をひとつ。鬼の話です。

牙牙格双魄、魉衣、魂寺、これらは本来の中文版でのクー・ヤガ・クラン、ミュフェ、デュケの名前です。全員「鬼」という文字が名前の中に入っています。彼ら聖国真類という種族には名前以外にも「鬼」を意識していると思われる描写が多く存在しています。その点について私見を述べつつ、中国における「鬼」が表すものについても紹介してみようと思います。

本題に入る前に、中文版での名前の話題ということでクーの幻想構造の名前についても触れておきます。「喰い現貯める者」は中文版では「真实收割者」といい、直訳すれば真実収穫者となります。しかし收割者とは現代中国語においては専ら「Reaper」つまり魂の収穫者たる「死神」の訳語として用いられる言葉です。そのため真实收割者の意味とは文字のままに捉えるよりも、魂と真実の収穫者、あるいは真なる死神と解釈するのが適当でしょう。

では本題に戻ります。まず「鬼」という漢字の成り立ちについては、下の部分が「人」の体を、上の部分が異形の頭部を表す象形文字とされています。それが指しているのが化物なのか仮面をかぶった巫師なのかについては意見が別れていますが、いずれにしろ通常の「人」と区別して表記する必要のあるものなのは確かです。人のようでありながらも人とは見なされず、異界と繋がる存在、それが「鬼」という漢字が持つ根源的な意味となります。

①妖怪としての鬼

もちろん鬼という漢字は中国伝来のものですが、日本人がこの字から真っ先に連想するオニという妖怪は日本で生まれたものです。まず、漢字が伝来する以前からオニという神秘的な存在の概念が古代の日本にはあったようです。オニという音の由来には諸説ありますが、目に見えない存在を指す「隠(おぬ)」から来ていたとするのが一般的です。そして中国での鬼という漢字には妖怪や不可思議な存在の全般を指す使い方があり、オニの音に鬼の字が当てられることになりました。その後に、時代の変遷とともに言葉のイメージが変化していき、平安時代には現在想像されるような頭に1本か2本の牛の角を持ち虎の皮の下穿きをつけているという姿が定着したと言われています。これは当時盛んだった陰陽道丑寅の方角(東北)を鬼門、つまり鬼の通り道としていたことから、鬼と牛や虎が結びつけて考えられるようになったためです。

中国にも伝統的な半獣半人の妖怪や角の生えた妖怪、鬼の字が入った妖怪は数多くいますが、やはりの日本のオニとは成立過程もイメージも異なります。ただ近年は漫画やアニメを通じて日本のオニを知り、「鬼」にオニの概念も重ねられる中国人はかなり増えたようです。頭部に角が1本生えていてそれ以外は人類とよく似ているという聖国真類の特徴は、日本の妖怪としての鬼を意識したものだと考えていいでしょう。加えていうならばデュケの上着は横縞ですね。

②異民族としての鬼

異民族を化物や獣の名で呼び表すことは世界各地で見られます。そして異民族・他部族を指して鬼と呼称していた例は中国にも日本にも存在します。
日本人の私が聖国真類を見ると、中国と言うか大陸のアジア的な民族の印象を強く受けます。

まず聖国真類の民族衣装の立襟で右前の合わせ(正面から見た左側)を飾りボタンと紐で固定するという特徴は、中国の西方や北方の民族でよく見られるものです。日本人がこうした服装として真っ先に思いつく旗袍、いわゆるチャイナドレスも元来は中国北方の少数民族である満洲族の民族衣装が基になったものです。

顔立ちも、漢民族として設定されているヨウや東アジア系の民族であるらしい未神明阿弥額勒迦(神明阿アミル)と比べると、彫りが深く目鼻立ちがしっかりしています。どちらかと言うと、現実に存在する西洋人の名前が設定されているエミリアやその父やルシス(路西斯・ルシウス)に近い系統であるように思えます。中国の西方部の民族は、古代から漢民族の王朝だけでなく中央アジア西アジアとも交流があり、コーカソイドの特徴も色濃く出た容姿を持っています。

またミュフェの現実構造の「忠愛の鬼兵」の首から上に頭がなく胴体に顔があるという特徴は、中国神話において黄帝に首をはねられた後も胴体を顔に変えて反抗を続けた巨人の神祇である刑天(形天)から着想を得たのではないかという中国の方の考察をウェブ上で拝見しました。

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「刑天」(2017年7月4日 (火) 閲覧)『ウィキペディア中文版』より

https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%88%91%E5%A4%A9

刑天とは早い段階で漢民族の神話に敵役として組み込まれた神祇であるものの、元々は漢民族支配に抵抗する異民族や彼らの神を示していたと言われています。西南方に縁があるとされていることから、一説には西域人と関連のある存在だとされることもあります。忠愛の鬼兵のぱっと見の印象など『群青のマグメル』の最近過ぎる他作品から影響を受けていると思しい部分にはヒヤリとするところもありますが、こうした古代中国からの要素を感じ取れる要素も見つかるのはなかなか興味深いです。

外見的特徴だけでなく、私が本質的に中国の西方の民族の要素を感じるのは、中国にとって西方が古代から現代に至るまで「未知なる探険の地」としてある種の蔑視と裏腹の憧れを持って意識され続けて来たという点です。日本でも有名な伝奇小説「西遊記」は、妖怪・仙人・神々・如来など数多の神秘的な存在が跋扈し(漢民族の)人知を超えた探険の地である西方というイメージをこれ以上なくよく示すものです。またその基となった「大唐西域記」は唐代の訳経僧の玄奘が天竺へ赴いて仏教経典を唐に持ち帰った実際の旅を記した地誌であり、仏教の伝播の経路としての「聖性」も西域を語る上で欠かすことは出来ません。

同じく西域を扱い日本でも有名な中国文学に王維の「送元二使安西」という漢詩があります。西域へ使者として赴くことなった友との別れの名残惜しさをうたったもので、永遠の別れへの覚悟とも取れる響きがあるところに、当時の西域への単に物理的な距離とどまらない遠さが偲べます。

「西域」とは狭義には現在の新疆周辺を指す言葉ですが、広義には中央アジア西アジア、場合によっては地中海周辺のヨーロッパを指すことさえあります。このあたりの事情は、日本においては南蛮という言葉が、室町時代以降に九州そして東南アジアを経由してつながりを持つようになった西洋を指す言葉へと、冒険浪漫的なニュアンスを伴いつつ変遷していったことと似ているかもしれません。

西域は近代の19世紀から20世紀初頭にかけても、探険の地としての注目を世界中から集めました。近代において先進国が世界各地で植民地と覇権を巡って争う中、厳しい自然環境などによって久しく空白地帯となっていた中央アジア周辺は、最後の大規模な闘争の場として多数の勢力が秘密裏にあるいは公然と暗躍する地へと変貌を遂げたのです。またこうした探険による発見には学術上唯一無二となる報告も多数存在し、より一層世界中からの注目を高めることとなりました。地理学分野ではさまよえる湖ロプノールが、文化人類学分野では敦煌文書が特に有名です。日本からも世界に乗り遅れまいと、学術目的の探検隊が幾度も西域に旅立っています。ただし、当時の先進国による研究とは、植民地化を第一目的としないものであっても、地元住民を自分たちとは異なる「管理すべき対象」と見なしていた点で覇権争いと同様の意識の上に成り立っていた側面を考慮する必要のあるものです。

西域に対する中国人の複雑な感情を日本人でも理解しやすくしてくる言葉が「シルクロード」です。陸のシルクロード、特にオアシスの道が広義の西域とほぼ一致するだけでなく、シルクロードという言葉の持つ古代から現代へと続く浪漫、探険と発見、異郷への旅情といったイメージは、中国人が西域に抱く感情にある程度重なるところがあります。

ちなみにシルクロード最盛期の唐代を舞台にした武侠漫画『長安督武司』は中国における第年秒先生の代表作であり、西域人やその他の外番人(外国人)の描写が多数あります。特に興味深いのが、武侠作品においてはともすれば都合の良い敵役として描かれがちな西域人が副主人公、しかも主人公が所属することになる長安督武司という組織の司長を任じられた人格者として設定されていることです。基本的には少年漫画らしく複雑さを避けて派手さを重視したデフォルメの効いた描写がなされているのですが、彼が西アジア系かつ唐代の胡人のイメージをほぼ踏襲している点からペルシア(波斯)系交易民であるソグド人と推測できることやキリスト教徒らしいことなど、シルクロード好きならばたまらない描写も随所に盛り込まれています。唐とキリスト教とは意外な組み合わせと感じる方も多いかもしれませんが、ネストリウス派キリスト教つまり景教とは当時に西域人によってもたらされていた宗教であり唐代三夷教にも数えられています。こうした西域に対する知識の深さは流石本場の中国人作家ならではの強みです。

③死者としての鬼

以上長々と枝葉の部分を述べてきましたが、中国において最も一般的かつ本質的な「鬼」の意味とは、死者の魂、即ち幽霊のことです。人の姿をしながらも彼岸にありて此岸の者を誘う存在、それが鬼なのです。

拾因が世界を超えた先の異界で見つけたのは、おそらくもう死んでしまった「彼」と同じ姿をした子供の聖国真類です。まさしく過去の亡霊を見る思いがしたことでしょう。そして子供はその身に死神の構造を宿していました。

一方でクーにとっての拾因とは、初めて見た人類であり、つまりは境界を侵して入り込む異人そのものなのです。さらに言えば、その時の拾因は生者と呼べる状態だったのでしょうか?もし黒い瞳のヨウが自分を拾因として複製しそれに世界を超えさせる際に死亡したとするならば、拾因の魂とはどこにあるもので、そして生者の魂と呼んで良いものなのでしょうか?

越えてはならない境界を越え、人のようで人でない存在、「鬼」。本当の鬼とは一体誰なのか、それを教えてくれるのはただこの先の展開だけです。

 

おまけ

日本語版でのクーの構造名「喰い現貯める者(クラウド・ボルグ)」もきちんと考えられたものになっています。喰い現貯める者という漢字での表記が現実構造を吸収して蓄えるという幻想構造の性質を表しているだけでなく、そのまま読んでも「くいあらためるもの」という意味のある言葉になります。ルビもクラウドが「喰らう」と「クラウドストレージ」にかかっていて、「ボルグ」がアイルランド語で「膨張・腹」を意味します。モチーフも「ゲイ・ボルグ」と持ち主の「クー・クラン(クー・フーリン)」そして「マグ・メル」とアイルランド神話で一貫されています。完全な余談かつ私の勝手な思い込みですが、この宝具名もとい構造名だけ出来が頭抜けているので、翻訳スタッフの中にTYPE-MOONFateシリーズのクー・フーリンのファンがいる気がします。ちなみに「宝具」という言葉はどんな辞書にも載っていません。2004年発売の『Fate/stay night』とそのシリーズでの使用が有名ですが、単に財宝である道具という意味を超えて、戦闘で使用される超自然的な存在としての宝具の用法を広めたのは、2002年に刊行が始まった高橋弥七郎先生の『灼眼のシャナ』とされています。そして『灼眼のシャナ』での宝具とは、中国の伝承において仙人が使う摩訶不思議な道具の総称である「宝貝(パオペエ・たからがい)」などを基に考えられたと言われています。一周回って中国に戻ってくるのが面白いですね。ちなみに仏教の儀式で使う道具であり時として魔物を調伏する道具ともなる法具(ほうぐ)が宝具と表記されていることもありますが、誤変換です。

群青のマグメル第40話感想 ~魂は複製されうるのか

第40話 完全 20P

追記 原題:神明的力量 (直訳:神の力量)

『群青のマグメル』第4巻が7/4(火)に発売されます

www.shonenjump.com

 

今回は各勢力から「目標」とされていた何かが「完全構造力」というものだと判明しました。前回で完全構造力を巡る争いの導入に一区切りつけたことで、改めて現状の整理と争いの本格化に向けた布石の提示が行われています。

文字の多い説明回なので、絵での説明や凝ったアングルのコマも多くして、頭と締めをギャグで挟むことで退屈させないように気を配られています。なのですがそのギャグが単に構成上必要というだけでなくかなりかっ飛ばしたものになっています。

ヨウはいつもながらヒッデェことをしますね。クーとのギャグ会話は一方的にヨウが振り回してばかりなのですが、ガキっぽく甘えるヨウと怒りながらも許容しているクーという信頼関係が読者にはわかっているのでギャグとして成立しています。クーが故郷でも交友関係をちゃんと築けているのを踏まえるとなおさら2人の関係は興味深いですね。デュケは現時点では貴重な自分から力になってくれそうな大人(それでもおそらく青年の範疇)ということで、面白い立ち位置です。数値的なスペックではクーやミュフェに軍配が上がりそうですが、デュケの他者への接し方には好感が持てて信頼したくなります。

ヨウがクーだけでなくミュフェやデュケとも友好的に接触できたことで、聖国真類全体とも協調路線を取れそうなのも嬉しいポイントです。本来であれば、特に常識的そうなデュケは人類に深入りするのは避けたいはずですが、ヨウが初手の爆弾発言によって主導権を握ったことでそこを完全に有耶無耶にできています。方向性はどうあれクーが人類と親密にしていたこともこれ以上なく伝わっています。

キャラ描写でいえば黒獄小隊の夕国が飛行する舟から足をプラプラさせている様子も、少しわがままで気まぐれっぽい性格が見て取れていいですね。一コマ気の利いた女性の仕草の描写があるだけでも話全体が随分と華やぎます。言葉に棘があるのも悪役女性キャラとしては立派な華です。

本題の完全構造力については、その性質自体が明らかになる一方で、使用に関する謎も浮かび上がりました。

まず性質については、拒絶する力を中和できる「受絶する力」を持つというのが重要です。「目標」が神明阿一族の第8大隊の後始末のため探していた目標だというのは前回で判明していました。そしてヨウが調べようとしていた探検家をマグメル深部に送り込むための拒絶する力を回避する方法、それを実現するべく奪われたものなのだとも今回で判明しました。

しかしクーの知る限りでは量などの問題でそうした利用は不可能なはずだと言うことです。神明阿一族がどうやってこの実用上の問題をクリアし、ヨウたちがどうやって阻止しようとするかが、次の展開の焦点となりそうです。マグメル各地で拒絶する力が強まったのは完全構造力が人類の手に渡った余波なのか、それとも完全構造力が大量発生させられてしまう予兆なのか、そういった点も気になります。

また、永遠の現実や生命すら構造できるという完全構造力の性質は先々の展開で間違いなく話の軸となる部分です。「永遠」の「現実」「構造」という言葉は、第31話であの拾因が言及していた内容とも一致します。数々の状況証拠から黒い瞳のヨウが完全構造力を手に入れ聖心に接触したのは確定的なのですが、具体的に何をしたのかはまだほとんどわかっていません。

具体的な行動でありえるものとして、第一に実は並行世界間や時間軸の移動はなく、黒い瞳のヨウが戦争終結後に完全構造力によって金の瞳のヨウたちをつくっただという案を考えてみました。しかし隠蔽したにしてもマグメルとの戦争やエリンが一般人に全く知られていない点や有名人であるオーフィスが2回出現することになってしまう点などの齟齬が多く、間違った考えだと断定してもいいでしょう。やはり並行世界間の移動は存在したと仮定したほうが矛盾の少ない案を考えやすいです。

第二に金の瞳のヨウの世界そのものを完全構造力によってつくったという案も思いつきました。しかし説明を読む限りでは世界をつくるには世界と同じ量の完全構造力が必要となってしまうので、これは今のところ不適当です。

第三にさしあたって矛盾の少ない案として立ててみたのが、ヨウが拾因として認識している人物とは実は黒い瞳のヨウが完全構造力でつくった自分のコピーの現実構造だというものです。この場合彼は聖心の拒絶する力を回避しつつ接触して目的(並行世界間移動?)を果たすために完全構造力の受絶する力を利用したことになります。その際に黒い瞳のヨウの「あの鍵」もコピーされていれば、「あの鍵」が3本存在することも説明できます。「あの鍵」にも受絶の力があるのなら終盤で金の瞳のヨウが聖心に接近する時などに役立つのかもしれません。またメタ的な視点ではありますが、夢限境界で(拒絶する力によって?)死亡してたのが黒い瞳のヨウだとすれば、拾因の再登場が期待できます。ただしその場合、黒い瞳のヨウはお決まりの魂による再登場さえ望むべくもない状況であり、本当の意味で死亡していることになります。