群青のマグメル ~情報収集と感想

『群青のマグメル』と第年秒先生を非公式に応援

群青のマグメル第59話感想 ~成果実りゆく

第59話 再生 24P

対アスス戦をはじめとした神明阿の施設への潜入エピソードが終了し、そのさなかに死亡したゼロの蘇生を目指す新エピソードが始まろうとしています。今回はそのインターバルとなる話であり、これまでに起きた出来事の結果が整理されるとともに、これから果たすべき行動を決定するための情報が開示されてもいます。

まず確認しておきたいのがヨウたちの敵である神明阿一族の動向です。前回構造した若返りのための果実は、ルシスが利用するためのものではなく先祖の当主たちを若返らせるためのものだったのですね。若返りというのは、年齢の時空的な巻戻りを意味するものではなく、身体の発揮できる機能の外見も含めた活性化を示すものと考えるべきでした。服用すれば全盛期の力を取り戻す引き換えに寿命が一年縮んでしまうという点からも、少なくとも現在のルシスたちが必要とするものではないでしょう。つまりこの果実を構造したのは当主たちのためだということになります。もちろん当主たちの力を、未だに具体性の見えない部分のある計画を果たすためにルシスが有効利用しようとしているのは間違いなく、その点からは擬神との対話というリスクに踏み込んだのも合理的な側面のある行動だと言えるでしょう。しかし私としては、擬神の構造に成功した後は自分に勝る権力を持つ当主たちの動きをすぐに封じるような完全に自己中心的な人物像をルシスに想定していただけに、彼が一定以上に当主たちを慮った行動を取ったことには驚きました。上祖アススの死を感じ取って涙を流したことからもうかがえる通り、ルシスにも他の生物とは違い当主たちとは心が繋がる余地があるようです。ルシスが神明阿の若様だとするのなら、これは同じ血と強さを持つことになるアススの「血の繋がる者としか繋がることが出来ない」という性質と共通しているのかも知れません。

一方で、もしそうだとすると俄然興味深くなるのがこの場面で涙を流すルシスと物憂げな顔をするアミルの温度差です。普通に考えれば、アミルもルシスほどあからさまではないにしろアススの死を悲しんでいるという表情なのでしょう。しかしアミルには実は神明阿の直系の血族でない可能性があり、上祖様であるという理由だけではあまり交流のないアススの死に対して大きな感傷を抱けないのかも知れません。それだけでなく、直系の血族である可能性の高いルシスとは常に行動を共にしつつも複雑な感情を覗かせていることを考えると、上祖様「には」死に対して涙できる様子を見せることで血族とそれ以外への心の断絶を改めてあらわにしたルシスへと、思わず眉をひそめてしまった表情だと考えることもできます。ただ、これは我ながらだいぶ穿ちすぎた見方だとは思います。

ヨウたちの側では、ひとまずヨウが生命の危機を脱しゼロの体も原皇によって保持されることで、今までの切迫した状況からようやく現状を整理しつつ次の行動に備える余裕が出てくるようになりました。ヨウの左足が接合され治癒しつつあることにもホッとできます。ここで命のないゼロの体の保持に原皇の端末化の能力を利用すること自体は、憑依の存在するオカルトものの定番の展開だけに予想できてはいたのですが、そこからゼロの記憶を読んでヨウの治療へと繋げてきた部分には素直に唸らされました。かつてヨウが救えなかったクリクスのためのもののはずだったマグメル外縁6区のエポナの涙が、この局面でヨウを救うために利用されるという因果の結実にはなんとも皮肉なものを感じます。ヨウがクリクスの両親の探検家バッチを掛けていった彼らの墓に生える植物が成長して花を開かせているという描写もあり、時の移り変わりには物寂しくなる思いもあります。

ここで原皇がヨウを助けたことの第一目的は、もちろんあの島で感じた馴染みのある気配の正体をヨウの記憶を読んで突き止めるためです。ただ17Pでふいに拾因が原皇の頭をよぎったことからも、拾因の後継者であるヨウ自身への興味のために利害とは別の部分でも命を救いたくなった部分も少なからずあるのでしょう。原皇はゼロの体を人質に取れることもあって自分が優位な立場からの話を進めようとするのですが、ヨウが狙いを察して自分から体を差し出すことを提案して原皇のペースを崩すという駆け引きが面白いです。いくら怪我をしていて恩もある弱い立場にいるからと言って、自分の体を好きにさせるようなリスクを利を得る宛もなしにヨウが良しとするとは思えないので、この交渉については何らかの考えがあると思っていいようです。読者にとっては、ここで原皇がヨウの記憶を覗いて第三者的な立場で整理してくれば、まだ不明瞭な部分の多いヨウの知識の範囲がはっきりすることも期待できます。

一連の会話では、原皇の端末になっているゼロが少女らしい体つきや顔立ちとは裏腹な大人びた表情と言動によって小悪魔的な魅力を発していて、ヨウとの会話に蠱惑的な雰囲気をさりげなく漂わせているのがシックにアブノーマルなこの作品らしい危うさがあって痺れますね。飛行機の外のトトも、理由もわからずさんざん連れ回された挙げ句に下女のように食事を作らされ、やけっぱちな明るさで適当な歌を口ずさんでいる様子が妙に可愛らしいです。トトの親しみやすさとバイタリティにはいい意味で彼女がお嬢様なことを忘れさせられてしまいます。ただ、女性陣を差し置いて今回一番印象に残ったのは、13Pの窓の外を眺めるゼロに気が付いた時のヨウの表情です。不安と僅かな期待が入り混じり、どこか迷子の心細さを含んだような微妙な感情の表れた一瞬が精緻に切り取られています。一転してのゼロが原皇の端末とされていることに気が付いた時の怒りも、激しい感情を大げさに類型化されたものとしてではなく、静かに観察しつつどこか突き放してさえいるように描写しているのが印象的です。

また、冒頭では久しぶりとなるクーたち聖国真類の様子も見ることができて嬉しかったです。律儀に罰を受けたためにこのエピソードでは合流できなかったクーの生真面目さが自然に微笑ましく感じられるのも、ゼロの蘇生が確信できたこのタイミングでの再登場ならではでしょう。相変わらずのミュフェと罰でしなびてしまったデュケの様子も面白いです。

群青のマグメル第58話感想 ~他者の理解

第58話 壁 26P

ヨウは拾因から渡された完全構成力を使用してゼロの蘇生を試みますが、修復は表面的なものにとどまり息を吹き返させることは叶いませんでした。ここで立ちはだかるのが、他者を理解することは誰にもできないという現実です。もちろん今回で問題にされているのは構造の能力の対象としての他人への理解なのですが、先のエピソードにおいて描写され続けた他者の感情が理解できないというアススの苦悩により、その困難さは読者にとっても非常に説得力のあるものとして受け取ることができるようになっています。他者の全ての細胞の構造を理解することは、アスス程ではないにしても、人間が他者の感情を完全に理解することのように困難なのです。

他者からの理解によるゼロの蘇生が不可能ということならば、残る可能性は自分自身からの理解にしかありません。言葉だけ見れば突飛なようですが、自分の理解という構造者としての技術をヨウが実現していることは、既に作中で幾度もほのめかされています。現実と幻想を両立した構造が可能なのも、第53話で新たな能力に覚醒したのも、限りなく同一存在ながら別個体の自分を理解しその能力も理解したためなのでしょう。ゼロも同一存在ながら別個体の自分から理解してもらえれば、完全な身体の構造による蘇生が可能となるはずです。20P上段のコマの表情を見る限り、原皇との会話の中でヨウはそれに気が付けたようです。

そして今回、今まで存在の示唆されていた3人目のヨウらしき人物が確認されただけでなく、3人目のゼロらしい人物も新たに登場しました。ヨウらしき男性の方は第53話5~7Pで登場した男性と同一人物と思われますが、彼らの正体はまだ謎だと言うことしかできません。第53話の「同時刻――― 遥かのマグメル深部――」という表現も、ひとつの世界における遠隔地での同時刻とも、並行する別世界における同時刻とも捉えることができます。自分の理解という技術を知らないようであること、黒髪であること、因果限界が小ぶりで六角形であることなどの点から、とりあえずは実はあの拾因が生きていた姿だということではなさそうです。服装の点では、第10.5話におけるヨウ・ゼロと全く同じであることが大変気になります。これまで私は第10.5話のヨウ・ゼロはいつものヨウ・ゼロと同個体だという前提で考えていましたが、ここが覆るかもしれないとなると、根本的に一から考え直さなくてはいけなくなりそうです。現在のところ立てられる仮説ついては後日まとめ直してみます。

話題は少々本筋から外れてしまいますが、『群青のマグメル』の死の扱いで興味深いのが全ての細胞の死を阻止すれば一旦死亡が確定した後でも蘇生は可能だと示されている点です。心身二元論が浸透している多くの日本の創作物だと、ここは体は回復しても魂は戻らないという方向で完全な蘇生を目指す展開になるところではないでしょうか。しかし感情と物的構造の両方についての言及はあるものの、生命をあくまで物理的な身体に宿るものとして扱っているところに中国的な、ひいては第年秒先生の漫画らしい「もの」の捉え方を感じます。第年秒先生の中国における代表作である『長安督武司』でも、肉体から切り離せる形で人格を司る魂が存在するというより、人格は記憶から生まれ記憶は身体に宿るという描き方がなされていました。もちろんこれはこれである種の創作上のハッタリではあります。ですが、物質を土台とし地に足を着けたハッタリを創作の根底に置いていることには、現在の『群青のマグメル』では神や擬神といった観念的と言ってもいい領域の話題が取り扱われているだけに、身体感覚での理解を拒絶しない安心感があります。

本筋の話での他の話題では、ルシスの正体については、もう完全に神明阿一族の「若様(少爷)」だと断定してしまっても良い状況だと言えるでしょう。目的も人を若返らせる恵みを手に入れることだと判明しました。アミルが協力していることを考えると本当の願いは別にあるのかも知れませんが、若返りを願うというのはたとえば自らの恒久的な支配を目論むラスボスなどに定番のものであり、いい意味で理解しやすいです。この場面はほぼ会話のみで構成されていますが、精神と体が明らかにダメージを受けていながらも平然と笑みを絶やさないルシスの不気味さや、アミルの派手ではなくとも鋭さのある動きにより、緊張感をもって仕上げられています。また、擬神に瞳が入ることで、それまでの禍々しいだけの印象からキャラ性や人物性に近い可愛らしさのようなものを感じられるようになったことが面白いですね。ルシスの神を拝む動作が、西洋的な掌を組むものでなく東洋的な掌を合わせるものなのも、神明阿一族の文化の混交を感じられて興味深いです。

群青のマグメル第57話感想 ~夢の帰結

第57話 その先 20P

ダイナミックなバトルは既に終結し、今回はアススという人間の背負うものの決着によって描かれる物語の意味に焦点が置かれます。

前回から引き続いての、現実の人間に対して抱くべき「普通」の感情を理解したいという動機で妻を殺害し、当の妻に後悔を問いかけられようとそれさえ理解できなかった600年前のアススは身勝手で常人離れした神明阿一族というイメージをそのまま体現しています。やがて妻の顔が意識の外に消え、コールドスリープを経て使命のために現代に目覚めたことも、まさに神明阿一族の一員らしい行動だと言えるのでしょう。

それでも500年に渡る夢の中、朧に霞む妻を繰り返し思い出し続けていつしか妻の姿が再び鮮明に蘇るようになったことは、彼の無意識におけるもう一つの真実を何よりも雄弁に物語っています。トトの声により呼び覚まされた、リリの問いかけへの本心からの答えである「後悔したかった」という言葉と表情は、「普通」からは隔たっていようと紛れもなく人間であるアススの姿を表しています。神を目指す一族としての自負を認識しながらの裏腹な致命傷の無残さ、怪力を宿しつつ力無くうなだれるオーグゴーンの巨体、流れぬ涙の代わりに滴る雨粒などにより、彼にとっての矛盾を孕んだ真実である後悔できなかった後悔というものが強く印象付けられます。

しかし死出の旅に就いた旅人であるアススが最後にたどり着いたものとは、初めて語り合った光あふれるあの丘でのリリとの再会でした。かつての姿に戻り自分の本当の原点を確認しつつ、そこから今までたどってきた長い旅の物語をリリに伝える決心がついた時、彼は自らの人生に何らかの決着を見出すことができたのでしょう。後悔できなかった後悔さえも飲み込んだその物語は、幼い頃の彼が夢中になった物語以上に心を動かすものであることを彼自身がよく理解しているはずです。彼の物語に僅かなりと触れた私はそう信じたくなります。アススとリリの再会とはあるいは2人の魂の本当の再会かも知れませんし、あるいは眠りにつくアススが見た再びの夢であり幻想であるのかもしれません。それでも人に語れるだけの確かな帰結に彼が自分で行き着いたことには間違いないのです。

この場面では、アススに全く関心が無いヨウ、アススにとどめを刺しながらも実力に一定の敬意は表してみる原皇、全く状況を理解できないながらもアススをはじめとした周囲に思いやりを見せるトトと、登場人物のいずれもが各人らしい行動を取り、物語を深めています。特にトトのともすれば軽んじられがちな人の良さにきちんと尊重の感じられる描写がなされていることは、作品全体においても大切な意味を持つと言えます。『群青のマグメル』は正義と悪が不明瞭で、暴力の直接的な強さが確実に存在する作品です。だからこそ、たとえ力は小さくとも善意がかけがえのないものだと示されてることには、悲観でも楽観でもない真摯さを受け取りたくなるのです。

また細かいところではありますが、反撃には力不足ながらも上祖様のお体を連れて帰りたくはある様子の壱八獄中隊隊員たちもなかなかいい味を出しています。

一方で心から唸らされたのは、ヨウが完全構造力を用いてゼロの蘇生を試みている最後の場面です。これは回想の通り第48話で拾因が所有していたものと同一の完全構造力でしょう。確かに、詳細は不明ながらも拾因とほぼ同一存在だと思われるヨウならば、基本的には不可能なはずの完全構造力の引き継ぎが可能になるのですね。直前の場面で原皇が言う通り死者の蘇生は通常では成し得ないものですが、少なくとも肉体としての修復はこれで成功するはずです。いわゆる魂に関わる部分の修復までも考慮する必要はあるのか、あるとしたらこの場面で成功するのかどうかまでは定かではありませんが、それでもゼロの蘇生が物語の中において成功する期待の持てる展開になりました。ゼロの死から本格化した対アスス戦の締めくくりの話だけに、ちゃんと希望が示されたことで後味の悪さを引きずらずに済んでホッとできます。

『群青のマグメル』は派手なアクションの上手さが魅力の一つとなっている作品です。しかしそれだけでなく、今回のように静かな情感を確かに伝えつつ少年漫画らしいメリハリを付けられるところこそ、個人的には大きな強みだと感じています。

群青のマグメル第56話感想 ~巨星墜つ

第56話 大当たり 40P

今回はページ数がいつもの2倍の40Pあり、長い尺がダレることなく活かしきられ満足度の高い内容になっています。いつも通りドラマ的に見ごたえがあるだけでなくバトル描写もいつも以上にたっぷりとしたボリュームを持っていて、痛みを伴う力強さに溢れた肉弾戦と構造能力にとどまらない各人の能力を活用し尽くした頭脳戦の両方が楽しめます。巨変による攻撃と解除による回避の使い分けは駆け引きがいずれの場面でもよく練られて唸らされるばかりです。視覚的な変化にも富んでいて新しいページをめくる度にワクワクできます。12-13Pと14-15Pで見開きの2連発で披露された、遍く左手をヨウ自身が装備してのパンチには、贅沢に使われたページ数に見合うだけの力強さと勢いがあります。アススの水壁の棘による足止めをヨウが足場として使い距離を取り直す流れでも、駆け引きが面白いだけでなくアススの全身と対比されて確認させられるヨウの足の巨大さに息を呑みました。こうした派手な場面だけでなく、20Pでの三分裂した水弾をヨウがはたき落とすという動きの小さなコマも、表情の気迫と最低限の動きの的確さが際立たされることで印象深く仕上げられています。スケールの巨きな異常事態の渦中ではあっても、技巧的なヨウらしい格好良さが随所に見られ、キャラ性を活かした戦闘の組み立ての冴えに改めて惚れ惚れするばかりです。

能力の覚醒を経た主人公であるヨウ、その主人公にさえ勝るとも劣らない実力を発揮し続けるアスス、いつ終わるとも知れない2人の戦いは、トトを端末とした原皇という思わぬ第三者の介入により決着を迎えることになります。前回の最終ページでまるでルシスが搭乗しているように演出された飛行機が登場していましたが、今回でルシスは島の地下施設に留まっていることが明かされ、飛行機に搭乗しているのも原皇に憑依されたトトであると判明します。竜息穿甲弾を投下した飛行機の搭乗員が原皇に憑依されたトトであることは、まず口元や目元のアップからやがてズームアウトして全身が現れる原皇のお決まりの演出が踏襲されていることで、割合すぐに察しが付きます。それでもアススとの迫力ある攻防を挟んでじっくり焦らされた後に、アススの驚愕とシンクロするかたちで正体が明かされるとなかなかにインパクトのある場面となります。思惑はさておいてもヨウを援護する原皇の表情から感じずにはいられない悪辣さ、トトへの攻撃を解除したアススの姿への意外性にまさる納得感、いずれも善悪が一筋縄ではいかない現状を読者に突きつけます。

その上で光るのが突然の第三者の介入さえためらいなく利用してアスス殺害という目的を達成するヨウのクレバーさです。ゼロの死により新たな力に覚醒したこの局面でさえ、倒しきれない強者への対抗のために他者の力を利用するのをいとわないという割り切りには、結果主義者で力を目的でなく手段として必要としたヨウの原点に立ち返った思いさえします。ただ、家族と共に生きるという第一の目的を失った現状では、その常人離れぶりに格好良さだけでなく寂しさも感じざるを得ません。こうした複雑な表現が成立しているのは間違いなく描写の丁寧さの賜物ではあるのですが。

一方でアススの側も死亡こそ確定したと見て間違いないでしょうが、第三者の介入と妻の面影のある人物への動揺という横槍により個人としての力量の巨きさは互角以上の印象のままで決着を迎えたことになります。これは敵としては最大限に丁寧に扱われたかたちでの退場だと言えるでしょう。妻の面影を通してのトトとアススの接触、トトがスモールビックトーと名付け海に落としてしまった念動結晶、ゼロを血塊で撃ち殺したアススが念動結晶で撃ち殺された因果、アススをめぐる現状のすべてに結論がもたらされた幕引きです。その上でアススの過去の後悔が改めてほのめかされることになります。息絶えようとするリリがアススに訪ねた後悔とは出会い結婚したことに対してなのか、手にかけたことに対してなのか。それにアススは何を答えたのか、あるいは何も答えなかったのか。アススという人物の核心に興味が惹かれてなりません。

この先の展開の見通しとしては、トトに憑依した原皇が飛行機に搭乗していることで、協力関係さえ結べればヨウの逃亡成功に希望が見込めるようになったことは嬉しい限りです。それにしても擬神構造の正体追求を一旦保留してヨウに加勢するとは、48話で紫焔凶真を退路からどかせたことで示唆された通りに原皇はヨウに対して並々ならぬ関心があるようです。もちろんそれはヨウが拾因の後継者であるためなのでしょうし、拾因がおそらく世界の摂理を超えた一人目であるためなのでしょう。しかし原皇が拾因に対して、例えば黒い瞳のヨウとティトールのような個人的な因縁を持っていた可能性もあります。いずれにしても、正直ヨウにはそろそろ何処かで一旦落ち着いてもらい、現状の整理をして欲しいところです。他方で、ルシスの神に問いたいことの内容も気になってきます。対アスス戦終結後の新たな牽引力として、ルシスとアミルの行動と目的は極めて重要なものです。ルシス、そして彼と多くの時間を共にし価値観こそ合わないものの互いの理解者であるらしいアミル。彼らの正体と真の関係がそれらに関わってくるのは間違いないでしょう。彼らの関係が神明阿一族の現あるいは次期当主である若様と黒獄小隊隊長である点についてはほぼ断言できます。しかし神明阿一族として初めに登場したのは神明阿アミルではあるものの、顔立ちと髪の色、中文版での名前、性格、そして何より若様の左の手のひらに存在するはずの一族のシンボルである目の図柄、そうした全てが彼らの本当の立場について、ある可能性を示しているように思えてならないのです。その場合の黒獄小隊隊長の本当の出自についても気になってきます。

群青のマグメル第55話感想 ~天から差す光

第55話 超越者 20P

追記 原題:怪物对怪物 (直訳:怪物対怪物)

前回ヨウの感情の爆発とともに打ち倒されたと思われた神明阿アススでしたが、背景の一端が明らかになるとともに神明阿一族の当主としての意地を見せてくれ、彼もまた限界を越えたかたちでの真っ向勝負を迎えることになります。前回がヨウの感情のクライマックスであるなら今回はアススの意地のクライマックスといったところでしょう。

まず強さを求めるより作り物でもお話が好きだったというアススの幼少期が語られます。第45話の回想でも確かに本を読んでいたことを思い出すとともに、彼なりに感情があることが改めて示されちょっとした人間味を感じてしまいます。まさに漫画を読んでいる自分からすると、幻想のお話に夢中になる姿はなおさらに親近感が湧きやすいです。月を眺めながら同じく手の届かない幻想に思いを馳せるアススを満たした感動とは、私たちにも酷く身近な心の動きのはずです。しかし作り話には感動できても現実に対してはそうでもないというそれに続く独白には、普段どっぷりと幻想にばかり目を向けている自覚のあるほどに、絶妙に後ろ暗い部分での同調を刺激されてしまいます。他人の犬を蹴り飛ばしておいて平然としている様子も、これまで通りの常人離れした感性の露呈そのものではあるのですが、他人の感性とのちょっとした違いが無闇に深刻なものに感じられ悩んでしまうという経験自体は普遍的なものであり、一度共感の取っ掛かりができてしまうとこうした部分にも目を背けたい種類の感情だからこそわかるところがあるのに気付かされてしまいます。

それゆえに際立つのが全く感性の違うリリとの出会いでアススに生まれた心の動きです。後にアススの妻になるリリは偏屈なよそ者である彼にもひたすらに明るく接してコミュニケーションを試みてくれます。力では勝てない相手に恥をかかせて対抗すると宣言する開けっ広げさも、村から出たことのないという素朴さも、すげない言葉に自分から譲歩を示す優しさも、いずれもアススの性質とは正反対のものです。2人の座る遮蔽物のない草原は単調な画面になりかねないロケーションですが近景・中景・遠景の構成のしっかりなされたレイアウトにより場面のスケール感とドラマチックさが見事に盛り立てられています。そして草原での踊りの一枚絵の叙情性と斜め上から捉えたリリの笑顔の美しさは、口では「意味不明だぞ」とこぼしながら言葉に出来ず自覚も出来ないままにアススの中で湧き上がった何かを、絵の力でこれ以上ないほどに見るものに伝えてきます。目の前で現実の女性として踊るリリに降り注ぐ雲越しの太陽の光、それは幼い頃に手の届かない幻想を託した雲間から覗く月の光と同じ感動をアススに与えたのではないでしょうか。

戦いの中での敵の過去のエピソードの開示はともすればバトルの勢いを削ぐ要素になりかねないものです。リリとトトの語るアススは弱いという言葉も一面的には勘違いから発せられたものながら、強さが脆さを生んでいるような彼の本質を逆説的についていると感じます。ですが、ここではそれらを打ち倒されかけた際の一瞬の走馬灯として描写し、むしろそこから持ち直した気概こそを際立たせることで、対立の熱量がより高い次元に導かれていると確信できます。人類を超越した者同士の、善もなく悪もないからこその純粋で赤裸々な暴力のぶつかり合いにはただ息を呑むばかりです。

まず巨大な手が出てその後巨大な本体が全容を現すというヨウの攻撃を、より大きい規模でアススがやり返すことには、こんな陰惨な状況であっても素直に燃えてくるものがあります。アススが純粋な現実構造者である以上、巨大な手を構造した時点でそれに見合うサイズの生物の存在は意識してしかるべきだったのでしょうが、オーグゴーンの構造には正直言って驚かされました。無力化を装ってからの予想外の方向からの攻撃といい、アススがヨウたちと同じ手段を取りながらもスペックとしてその上を行くという描写は徹底されている印象です。もしかしたらヨウはこの場ではアススを倒しきれないのかもしれません。アススがリリとトトを重ねて見ているのが再確認されたこともあり、原皇の端末にされているトトと再会し何らかの決着をつけるまではアススが死なない可能性が出てきたように思います。その場合は、今回アススの命を削ったことが強調され命がもう十日も持たなくなったと断言されたのは、ここでのヨウの死闘を無駄骨とせず曲がりなりにも意義があったことを示すためだということになるのでしょう。

一方、この状態の中で腕が立つとはいえ人間の範疇でしかない十八獄中隊の隊員たちが逃亡することもなくアススの傍に留まっている様子には奇妙に感慨深くなるものがあります。前回までは読者への解説のための応援にメタ的なおかしさを感じるところが強かったのですが、アススの背景の一端を知った今となっては上祖様を懸命に信じてテンションの高い応援を続ける彼らの様子にこちらテンションまで引き上げられる部分があります。一番良く喋ってる鯰髭の隊員が、12P下段のコマで万歳をしているのに位置関係から気付いたりすると、ますます変な親しみが湧いてしまいます。

また神明阿一族が彼らなりの信念を示し『群青のマグメル』における正しさの相対性が再確認されたことは、常人からの逸脱を加速させるヨウにとってはむしろある種の許しといえるのかもしれません。この戦いが終わってヨウに悔いが残るとしても、向き合う必要があるのは守れなかったゼロに対してのみであり、信じるものがあるとはいえども自分たちを傷つけた神明阿の死者に向けるべきものは何も無いと考えたとしても、それはそれでヨウの正しさと呼べるはずです。それがいわゆる社会正義から外れたものだとしても、これからもこれまでのようにヨウが社会の外れで生きていくことを『群青のマグメル』の世界は許容しうるはずなのです。

後々に繋がる伏線となりそうな部分では、やはり若きアススの容姿が気になります。彼らは神明阿(中文版では未神明阿)といういかにも漢字文化圏的な一族の名を持ちながらも、外見としては極めてコーカソイド的な特徴を持っています。またアススの名は中文版では亚伯撒斯であり、聖書の登場人物であるアベル(亚伯)やアブラハム(亚伯拉罕)の中文における表記と共通性を感じます。最初に神明阿一族と名乗った神明阿アミルの黒髪ですっきりとした顔立ちと神明阿という表記によりアジア的な第一印象が読者に与えられてはいましたが、実は神明阿一族の源流とはユーラシアの西方にこそあるのではないでしょうか。コールドスリープ以前の神明阿アススは、ユーラシア西方のどこからか世界を巡る旅に出て、途上の欧州でリリと出会い、やがて東方の漢字文化圏に一族を率いて根を下ろすことになるという人生を送ったのかもしれません。また以前にも言及したことですが、神明阿アススや他の当主たちに共通する顔の特徴と、神明阿アミルの顔の特徴は全く異なっています。そして相当な実力者でありながらも未だ素性のはっきりしないルシスこそが当主たちと同じ顔の特徴を持っているのです。さらに言えば彼の構造の紋章は天使にも似た何かが羽を広げた図柄です。アススの構造の紋章が十字架であり、彼と子を成したリリの服の胸元にも羽を広げた天使らしき模様があることを考えると意図された宿命を感じざるを得ません。

 

なお、前回の「なんで理解できないかなぁ?」は日本語版の口調につられてアススの妻の台詞と考えてしまいましたが、その上のコマが今回の出会いの場面らしいことを考えると、「後悔? ~ 悲哀… なぜ理解できぬ? それは儂が人間性を持たぬからなのか…」という自問自答の一部だと考えたほうが適当であるように思えます。この場合アススの感情の無理解の指摘などリリは行っていなかったことになります。さらにアススがリリのそばにいることで現実の感情を理解したいという欲求をより自発的に持つようになった印象と、理解できなかった自分への落胆をより自ら深めた印象が強くなります。やはりアススとリリの断絶はアススの幻想の中にしか存在せず、リリに対して自覚できない思いがあるからこそ理解したいあまりに間違った手段をとってしまったのではないでしょうか。

群青のマグメル第54話感想 ~人間と感情

第54話 冷静には 20P

追記 原題:巨人的怒火 (直訳:巨人の怒火)

途中で偽りの決着まで挟み長らく続いた対神明阿アスス戦ですが、おそらく今回こそが本当のクライマックスでしょう。とうとうヨウとアススの激闘に決着がついたようであり、アススの抱える欠落が逆説的に示す人間性の理解という主題にも一定の落とし所が見えてきました。

まず戦闘においてヨウは神明阿の配下の放つ電撃を海水の飛沫で分散させつつ相手に返しつつ更に風の刃など物ともしない強さを発揮し、ごく当たり前のこととして2人を惨殺します。手骨構造への対応でも努めて感情を抑えて冷静に効率的に対処している様子が印象づけられ、明らかに禍々しく異常な事態が進行しているはずなのにそのことよりも繰り出される攻防の手数の多さの方に意識が向いていくようになっています。アススが最終攻撃のために構造した水球でも、人物たちとの位置関係の把握しやすいレイアウトにより自然に伝わる巨大感、内部のうごめく様子と多数の十字架の紋様が醸し出す不気味さなどの静謐さの強調された重々しい演出により、迫力はありながらもむしろテンションは押さえつけられ続けます。こうしたフラストレーションを一気に開放するのが17Pでのヨウの感情の激しい噴出と、続く見開きでの一閃のダイナミックさです。背後で巨大手装を構造し、自身の巨変を解いて手装に追い抜かせてウォーターカッターを撃破させ、残骸をくぐり抜けてから再び自身を巨変しアススを攻撃するという戦術も、能力を活用しきっています。流石のアススにも致死的な傷を与えられたと期待していい展開のはずです。

ただ、状況解決の目処がたつ程に意識せざるを得なくなるのが、どうしても円満には落ち着きようがない現状の結末の行方です。身体の一部を欠損するほどの大怪我を負ったこと、かけがえのない家族であるゼロを失ったこと、いずれもヨウという人間のかたちを根本から壊す傷となりかねないものです。今回の理性のうちに行った敵の殺害も理性を脱ぎ捨てて本能的な情動に身を委ねた攻撃も、ヨウにとっては人間と見なせない神明阿一族を始末するためとはいえ、ヨウ自身をますます人間の枠の外に追いやってしまうのではないかと不安になるところがあります。

感情を理解できないがゆえに人間を超越できた神明阿アススと、自制しきれないほどに溢れる感情を内に秘めるがゆえに人間離れするヨウ、2人は対照的であると同時にいびつに似通ってもいます。

後悔、絶望、憤怒、悲哀、そうした愛する人が亡くなった時に湧き上がるべき情動とはかつてのアススが妻の殺害時に抱くことを期待し、しかし抱くことのできなかった感情そのものです。己の方が殺害される側に追いやられつつあるさなか、相手のヨウの姿にそうした感情をアススが見出そうとしているのは、まさに運命の皮肉というほかないでしょう。あるいはそれらの思いに言葉の上だけでも考え至り、自分の欠落を自覚しながら心残りと言ってもいい何かを滲ませたのは、彼自身が死を突きつけられることで暗い情動を自覚しつつあるが故なのでしょうか。またこの心残りは、直接的には(おそらく感情の)無理解を指摘する女性の発言と繋がっているもののように演出されています。この女性は下側を一本結びした髪型からアススの妻でまず間違いないはずです。人間性を持たないと自認するアススにとってさえ、自身の感情の無理解によりもたらされたと考えているらしい妻との隔たりには、多少なりとも感じるところがあるようです。もしかしたらそれが妻を殺害した直接的なきっかけであるのかもしれません。ただアススが隔たりを意識していたとしても、アススを自分の命よりも大切だと語ったという妻にとっては、果たして隔たりは存在していたのでしょうか。妻がもし多少の違いなど自分が包み込めるものと感じていたのなら、実はそんなもの意識していなかったのかもしれません。彼女も自らの生死には関わらずに、アススがどこに行ってもそばにいるつもりだったと推察するのならなおさらです。だとしたらアススの欠落を指摘する言葉の真意とは、そしてアススに殺害される際に抱いた感情とはどんなものだったのでしょうか?また、動く心などないと自認しつつも妻に対して揺れる何かが確かに存在するアススは、自らの死を前にして何を理解するのでしょうか?あるいは何も理解できないのでしょうか?いずれにせよ人間としての神明阿アススについての結論がこの先で出されるはずです。

人間性、即ち人間と感情について焦点を置いたこのエピソードがどう決着するのかが、今後の『群青のマグメル』の方向性を決定する上で重要な部分になるのは間違いありません。今はただ次回の更新日である2月20日を待つのみです。

ハイッ!ホイッ!!ホワァタァ!!!の感想 ~あなたをずっと見ている

2018/1/10 文章を修正

特別読切の『ハイッ! ホイッ!! ホワァタァ!!! ~巡る因果の狂騒曲~』は第年秒先生が以前に中国での発表を予定して描いた作品『喝!哈!啊哒!』を日本語訳したものとなります。中国で一般的な漫画の形式に則っているので、左から右に読むカラー漫画となっています。2014年の9月に第年秒先生がこの漫画の中国語版を微博で発表した時のコメントによればその更に数年前に依頼されて執筆していた作品だそうですが、どうやら何らかの行き違いがあり中国では出版社の関わる媒体では未掲載となったようです。また同じくコメントによると『喝!哈!啊哒!』は『5秒童話』の源流となった作品のひとつということで、そうした視点から読んでも興味深いです。絵柄が今よりもややリアル系でスタイリッシュな印象が強い点も新鮮です。

掛け声のみで構成されたタイトルの印象通りの楽しい読切で、ラブ&コメディですがラブコメの甘酸っぱさよりもコント的なやりとりの面白さに重点が置かれています。いわゆる自殺コントの亜種で、自殺しようとしていた人物がやがてそれどころではなくなるという展開まで含めてお約束的です。最初から最後までほぼ主人公の正(ジョン)と謎の少女の会話のみで構成され、回想以外での場面転換が存在しないという割り切った作りにも関わらず、次々に小出しにされる新情報と画面構成の巧みさで18Pを走り抜けるように読み切ることができます。短い作品だけに初っ端から第年秒先生お得意の性悪美少女と振り回される気弱な少年という明確に立ったキャラが打ち出されていて、次のページに進むのにワクワクできます。

ギャグ要素は7P中段のネタ3連発のように日常あるあるからの思わぬズレが中心的な題材なのでしょうが、日本人の自分から見るとその日常あるある自体に文化の違いによるズレがあってなんだか妙におかしいです。特にハトを落とそうとして豚小屋に落下、のエピソードなんて現代日本ではまずありえない上にどことなく養豚の身近な中国の郷土性が感じられて、これもひとつの異文化理解といった気分になります。高層ビルが立ち並ぶような街でも少し外れに行けば素朴な部分が残されているのが現在の中国の風景といったところなのでしょうか。

全体の構成としては、後半に謎の少女がストーカー行為を告白するという怒涛の伏線回収があり、最後の1Pのオチで全てが腑に落ちるという点が見事です。

ストーカー少女の正体とは、主人公がかつて走り小便をした時にそれを目撃されてしまった少女だったのです。小さなコマですが7Pの中段左側に目撃した少女が首からカメラを下げているのがしっかり描かれています。それを使って当時はツインテールでなくセミロングヘアの少女が、ズボンが下りたままで股間を手で隠す涙目の主人公も写るように自撮りしたのがラストの写真です。光の加減か少女の髪色はやや異なるように見えますが、髪型や服装やリュックなどの持ち物といった主人公と少女の特徴は7Pの回想と写真とで完全に一致しています。ただ初めに7Pを読んだ時点では少女の正体に気が付かないようにする必要があるとはいえ、髪色が違って見えるせいで漫画の記号として同一人物とわかりにくいことは少々不親切な気がします。とはいえシーンごとの光の違いによる細かい色のニュアンスの変化が表現された作品ですし、水中かつ夕日を浴びていることで写真の色が本来の色とは違って見えるかもしれないことを考えると当時は黒髪で今の茶髪は染めているという可能性も一応はあります。また7Pの主人公の台詞の「めっちゃ見られた…」とラスト2P分で少女が連呼する「見せてもらった」「魅せ続けてね」「みせてくれたのは」などの「見る」というキーワードに注目すればストーカー少女の正体は7Pの少女の他に考えられないでしょう。

7P中段でのただのギャグに見せかけられた3つのネタは、1つはすべての発端で2つはその結果のストーカー行為を受けた結果だと読み返せば意味が持たせてあることがわかるようになっており、要素の散りばめ方がスマートです。ちなみに日本語版では11Pで「年に1度」となっているためこの3つしか不幸が起きていない印象になっていますが、中文版でこの部分は「一年又一年」「一年また一年と」でこの場合は何年もずっとという意味なので、主人公は長年さぞや大量の「不幸」に遭遇させ続けられていることでしょう。この3つはあくまでも例ですね。一年に一度しか会いにこれないとか手出しできないとかのストーリー上の仕掛けがあるわけでもないです。

さらに細かい日中版の違いを言うと、10Pの「彼にフラれたの」と14Pの「どうせ… フラれるんだから――」は「我可是,被男朋友甩的!」「反正…… 我也被甩了」なので個人的には後者も「フラれた」にするかもしくは「フラれてる」にしたほうがしっくり来ます。つまり橋の上での別の女とのデートを目撃してフラれたと感じつつもそれに直面しないために飛び込みを行ったのが日本語版で、デートを目撃してフラれたの承知の上でストーカー行為込みでの愛の告白をして、告白にキレられたことでフラれたと改めて思い知り飛び込んだとも取れるのが中文版という解釈になるでしょうか。まあどちらにせよイタズラの前振りにすぎない部分なので解釈はそこまで重要ではないかもしれません。一方で、「だって 最初にみせてくれたのは あなたなんだから…」を最後の1Pに被せるという日本語版独自の演出は、オチをわかりやすくする上でとても効果的で素晴らしいと思います。

なお今回は描き文字の日本語訳に不備が多く、特に気になった箇所のみを以下に挙げさせていただきました。

8Pの変装した少女の平手打ちの描き文字の訳し漏れ

 「啪(発音:パ)」この場合は「パン」。

15Pの水に落ちる時の「ドサっ」

 中文版は「噗嗵(発音:プトン)」この場合は「バシャン」。

17Pの水から上がった時の「シャラ」

 中文版は「哗啦(発音:ファラ)」この場合は「ザバ」。