群青のマグメル~情報収集と感想

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群青のマグメル第30話振り返り感想 ~かれらのふるさと

第30話 多分もう会わないよ 20P

原題:未神明阿关于拾因(直訳:拾因に関する神明阿)

この回は全体的に意訳が上手くいっていません。

この後から第34話までの訳も出来が悪いです。特に第34話の訳は率直に言って惨いものです。第28話か第29話で4巻分となるはずなので、このあたりで翻訳者が変わったのだと考えざるを得ません。第3・4巻分の翻訳が良かったこともあって、読んだ当初は今回の翻訳も何らかの意図があってのことかもしれないと考えてみたのですが、第34話の翻訳を読んだ時それが愚かな希望的観測に過ぎなかったと思い知らされ、打ちのめされました。

本当は今回の全セリフを中文版で確認してほしいくらいなのですが、特に気になったもののみ抜粋して自分なりの直訳を添えてみました。

 

(日本語)その日 偶然なのか必然なのか その二人は 出会った
(中文) 在因还未是因之时,在命运的偶然和必然之下,那两个人,见面了。
(直訳) 因がまだ因でない時 運命による偶然と必然の下 その二人は 出会った

文字通りに読むと拾因にとって自分の名が因でない、つまりヨウである時ということを示唆していると考えられます。漢民族では姓や名を敬称などもつけずに単独で三人称として用いることはあまりありませんが、まだ名の方がありえるはずです。ただしこの部分の読み込みについては、作者が意図的に煙に巻いた描き方をしているらしいこともあって、正直自信がないですね。

「偶然と必然の下」というのはこの時だったことは偶然だが出会ったこと自体は必然、つまり拾因はヨウを探していたと解釈できます。

扉絵を省いてのいきなりのこの一文はかなりインパクトがあり、読者に『拾又之国』という作品には裏の意味があるのだと気が付かせるには十分なものです。そしてこの回の前半部が影絵風の演出をされているのはなぜなのか、つまり演出によって何を隠そうとしているのかということに思い至れば、ヨウと拾因の関係もおおよその見当がつくようになっています。そしてそれに回答を与えるのが第33・34話だったのですが、日本語訳ではそうした構造は完全に破壊されています。

 

(日本語)男は腰を下ろし拾因と名乗った「奇遇だね」「”因”と”因”お揃いだ」
(中文) 男人告诉他,自己名叫拾因。『很巧,与你只有一字之差。』
(直訳) 男は彼に自分の名前は拾因だと告げた「巧いな」「君とたったの一字違いだ」

偶然と捉えるだけでなく、何らかの作為がある(例えば拾因はその場で考えた偽名を自画自賛しているなど)とも捉えられる含みがあります。

 

(日本語)しかし今は廃業していて男の子と会ったのはただの偶然だと
(中文) 那个时候也只是凑巧路过
(直訳) その時はあくまでも都合よく通りかかったのだと

「凑巧」は自分の希望することに遭遇するというニュアンスです。

やはり拾因はヨウと出会うことを望んでいたのかもしれません。

 

(日本語)君は俺と似ている
(中文) 你拥有与我相同的天赋,这是圣洲赠与你我的礼物。
(直訳) 君は俺と同じ天賦の才を持っている これはマグメルが君と俺に授けた物さ

構造者の才能がマグメルに由来するものだという重要な設定の説明を省略してしまっています。エリンが中文版では原著者と表記されるのもおそらくはこの設定と関係があるはずです。

 

(日本語)多分もう会わないよ
(中文) 大概不会了。
(直訳) 多分もう会えない

『以后还会再见吗?』(俺達また会える?)というヨウの問いに対する返答なので、この台詞の「会」の意味は「会う」の方でなく「できる・ありえる」の方です。

「会わない」と「会えない」だと含まれる感情がかなり異なるのではないでしょうか。拾因もヨウと別れることに心残りがあったのかもしれません。

 

(日本語)今日は我に首を持ってきてくれたのか?後ろに立つ貴様らの主の!
(中文) 站在后面那位才是这里的主人吧?
(直訳) 後ろに立っているその男こそがこの場の主催者だな?
前回は主催者の席に明らかに若様ではない男が座っていることで読者に違和感を持たせ、今回への引きとしていました。そして読み返せばその男は21話で若様から指令を受けていた部下だとわかるようになっていたのです。

  1. リー長官は主人面をして席に座り替え玉となることで神明阿アミルを護衛している。
  2. クーは黒獄小隊と顔見知りなのでひと目で芝居を見抜き、見知らぬ男が主催者だと見当をつける。
  3. その上でクーは芝居に引っかかってリー長官に向かっていくふりをしてから、アミルへ軌道を変えるというフェイント攻撃をかます。
  4. アミルへの攻撃を他の2人の隊員が最優先で打ち破るのを確かめ、本当の主催者を明白にしてみせる。
  5. そして芝居を既に見破ったことを宣言し黒獄小隊を挑発する。

以上が13Pから17Pの流れだったのですが、日本語版の台詞ではそれを理解することが出来ません。おそらく翻訳者も理解していないのでしょう。
中文版では第26話も合わせてクーが感情的になりやすいもののそれなりの判断力があることが示されているのですが、それを把握できない翻訳でただの力押しキャラだと誤認させられてしまうと、アミルの実力を即座に把握してひとまず攻撃をやめたことが、ただ気圧されたように見えてしまいかねません。

 

一応翻訳についての話題で触れておきますと、中国語での「少年」は現代的な用法としては青少年とほぼ同義のものとして扱われることの多い言葉であり*1、イメージされるのは概ね中学生以上の未成年となります。小学生以下を指すのは儿童・孩子・男孩などです。男孩という語が、小学生前後を核としつつ広い範囲の年齢も含みうるという点で、日本語での少年という語に一番近いのではないかと思います。ヨウは「男孩」から「少年」になった後で拾因と別れたので、弟子入りしていたのはおそらく7歳前後から12歳前後にかけてでしょう。

ちなみに上記の事情により中国で「少年漫画」というと外来語としての本来の定義に加えて日本でいうヤング誌的なニュアンスが強くなります。そういう意味ではやや背伸びして斜に構えた作風の『拾又之国』(群青のマグメル)は正しく少年漫画だといえます。凄惨なシーンが含まれることもあってか、中国の出版社の区分では適応年齢を満14歳以上としています。

 

前置きが長くなりましたが本題である感想へ移ります。

 

ヨウの一般人とかけ離れた職業、強さ、そして価値観についての種明かしとなる回です。

最初は恐ろしささえ感じられたヨウの価値観が読者にも自然に受け入れられるようになってからの、その理由付けとなる過去の話となります。もしヨウが主人公でなかったら、価値観が受け入れられない内にドラマチックな理由を明かすことで急激な印象変化を狙うという手法も効果的に働きうるのですが、いわゆる憧憬型に近いポジションであったとしても主人公は読者が最初から一貫して一番思い入れる人物であり、本作では新たな情報が出る際にも読者が投影している感情の乖離が起きないように気を配られています。また憧憬型から共感型へというヨウの主人公としての立ち位置の変化も極めてスムーズに行われています。

ヨウの生い立ちは客観的にみれば悲惨でいくらでもお涙頂戴ができそうなものなのですが、本人がそれを気にも留めていないことでむしろ前向きなたくましさが印象に残るようになっています。それでもヨウが初めて「人間として」扱われたのが、本来人間的なものからかけ離れているはずのマグメルでのことだという事実には心をえぐられてしまいました。ヨウは拾因から人間の世界に帰るように言われるのですが、ヨウにとって人間の世界とは帰る場所足り得るのでしょうか?ヨウは第1話で人界について「世界があまりにも退屈だった」と語っています。ヨウにとって人界とは送り届けられた途端に眠気を感じてしまうような退屈な場所でしかないのでしょう。ヨウにとってのふるさととはマグメル、つまり「家族」ができてそばにいてくれていた場所なのかもしれません。人界におけるヨウはエリンであるクー以上にたった一人で取り残された異邦人のようにさえ思えます。

ではその気持ちを身をもって知っているはずの拾因がどうしてヨウを人界に送り届けたりしたのでしょうか?拾因は自分自身があてのない逃避行に出て人界を捨ててしまった人間です。何もかもから捨てられた子供だったから、何もかもを捨てられる大人になってしまったのかもしれません。しかし何もない世界に本当に耐えることができたのなら、わざわざ「世界の敵」などというものになる必要はなかったはずです。拾因が最後にヨウへ望んだこととは、人間の世界を自身の帰る場所とすることと世界を救うことでした。拾因が命を投げ打ってまで再び拾い上げたくなったものが、その理由が、確かに存在するはずなのです。

一方でここ最近の話ではまるで人間以上に人間らしく見えたクーが、人間に対して牙を剥きます。その際に顕になったのは角と人ならぬ瞳という異形そのものです。クーは衒いもなく他者を認める性格ではありますが、同時に紛れもなく聖国真類の一員でもあり、強い自負心を持っています。聖国真類とはマグメルの根幹を守護する者たちであり、マグメルの構造力という恩恵を最も授かる者たちであり、マグメルをふるさととする者たちです。マグメルとはクーを育んだ家族と、共に生きてきた仲間が暮らす場所なのです。彼が彼である限り、マグメルの侵攻をまして聖地聖心の侵攻を見過ごすことなどできようはずがありません。もしマグメルが滅びるならばともに滅び、仲間とともに死ぬのでしょう。そしておそらく実際に「彼」はそうしたのです。群青の海を越えて出会った友人を追うことさえできないままに。

彼らのふるさとは戦火によって消え去りました。

*1:「青年」と区別する場合の辞書的な意味合いの「少年」でも下限は10歳とされ、日本での下限とされる7歳よりは上です。