群青のマグメル ~情報収集と感想

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群青のマグメル第58話感想 ~他者の理解

第58話 壁 26P

ヨウは拾因から渡された完全構成力を使用してゼロの蘇生を試みますが、修復は表面的なものにとどまり息を吹き返させることは叶いませんでした。ここで立ちはだかるのが、他者を理解することは誰にもできないという現実です。もちろん今回で問題にされているのは構造の能力の対象としての他人への理解なのですが、先のエピソードにおいて描写され続けた他者の感情が理解できないというアススの苦悩により、その困難さは読者にとっても非常に説得力のあるものとして受け取ることができるようになっています。他者の全ての細胞の構造を理解することは、アスス程ではないにしても、人間が他者の感情を完全に理解することのように困難なのです。

他者からの理解によるゼロの蘇生が不可能ということならば、残る可能性は自分自身からの理解にしかありません。言葉だけ見れば突飛なようですが、自分の理解という構造者としての技術をヨウが実現していることは、既に作中で幾度もほのめかされています。現実と幻想を両立した構造が可能なのも、第53話で新たな能力に覚醒したのも、限りなく同一存在ながら別個体の自分を理解しその能力も理解したためなのでしょう。ゼロも同一存在ながら別個体の自分から理解してもらえれば、完全な身体の構造による蘇生が可能となるはずです。20P上段のコマの表情を見る限り、原皇との会話の中でヨウはそれに気が付けたようです。

そして今回、今まで存在の示唆されていた3人目のヨウらしき人物が確認されただけでなく、3人目のゼロらしい人物も新たに登場しました。ヨウらしき男性の方は第53話5~7Pで登場した男性と同一人物と思われますが、彼らの正体はまだ謎だと言うことしかできません。第53話の「同時刻――― 遥かのマグメル深部――」という表現も、ひとつの世界における遠隔地での同時刻とも、並行する別世界における同時刻とも捉えることができます。自分の理解という技術を知らないようであること、黒髪であること、因果限界が小ぶりで六角形であることなどの点から、とりあえずは実はあの拾因が生きていた姿だということではなさそうです。服装の点では、第10.5話におけるヨウ・ゼロと全く同じであることが大変気になります。これまで私は第10.5話のヨウ・ゼロはいつものヨウ・ゼロと同個体だという前提で考えていましたが、ここが覆るかもしれないとなると、根本的に一から考え直さなくてはいけなくなりそうです。現在のところ立てられる仮説ついては後日まとめ直してみます。

話題は少々本筋から外れてしまいますが、『群青のマグメル』の死の扱いで興味深いのが全ての細胞の死を阻止すれば一旦死亡が確定した後でも蘇生は可能だと示されている点です。心身二元論が浸透している多くの日本の創作物だと、ここは体は回復しても魂は戻らないという方向で完全な蘇生を目指す展開になるところではないでしょうか。しかし感情と物的構造の両方についての言及はあるものの、生命をあくまで物理的な身体に宿るものとして扱っているところに中国的な、ひいては第年秒先生の漫画らしい「もの」の捉え方を感じます。第年秒先生の中国における代表作である『長安督武司』でも、肉体から切り離せる形で人格を司る魂が存在するというより、人格は記憶から生まれ記憶は身体に宿るという描き方がなされていました。もちろんこれはこれである種の創作上のハッタリではあります。ですが、物質を土台とし地に足を着けたハッタリを創作の根底に置いていることには、現在の『群青のマグメル』では神や擬神といった観念的と言ってもいい領域の話題が取り扱われているだけに、身体感覚での理解を拒絶しない安心感があります。

本筋の話での他の話題では、ルシスの正体については、もう完全に神明阿一族の「若様(少爷)」だと断定してしまっても良い状況だと言えるでしょう。目的も人を若返らせる恵みを手に入れることだと判明しました。アミルが協力していることを考えると本当の願いは別にあるのかも知れませんが、若返りを願うというのはたとえば自らの恒久的な支配を目論むラスボスなどに定番のものであり、いい意味で理解しやすいです。この場面はほぼ会話のみで構成されていますが、精神と体が明らかにダメージを受けていながらも平然と笑みを絶やさないルシスの不気味さや、アミルの派手ではなくとも鋭さのある動きにより、緊張感をもって仕上げられています。また、擬神に瞳が入ることで、それまでの禍々しいだけの印象からキャラ性や人物性に近い可愛らしさのようなものを感じられるようになったことが面白いですね。ルシスの神を拝む動作が、西洋的な掌を組むものでなく東洋的な掌を合わせるものなのも、神明阿一族の文化の混交を感じられて興味深いです。