群青のマグメル ~情報収集と感想

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群青のマグメル第66話感想 ~造物主とまがい物

natalie.mu

第66話 懐かしさ 24P

クーたち聖国真類に原皇が同盟の意思を持っていることが伝わりました。ゼロが現在原皇の端末となっていることやその印を隠さず示し、ヨウも事態の成り行きのおおよそは伝え、展開がテンポよく前進しています。

造物主と被造物

神明阿がマグメルの意識を擬神として具現化したという事実は、原皇の考えからしてもクーの反応からしても、対神明阿の同盟結成の鍵となる重大事項として扱うべき問題だと明らかになりました。マグメルの意識とは、原皇にとっては推論としてのみ知識に留めていたものですが、聖国真類にとっては自明の存在であるだけでなく造物主つまり神として崇めるべきもののようです。

幻想を現実に具現化する構造の能力、その源がマグメルであることは度々示唆されてきました。マグメルが生命を含めたあらゆるものの構造者となりうることも、ダーナの繭の事例などから明らかになっています。伝承や信仰が事実をそのまま反映しているとは限りませんが、話の構成上この場面でわざわざ造物主についての言及があったからには真実の少なくとも一端がすくい上げられている可能性は高いと思えます。マグメルの意識によって世界が構造された可能性があることやそれに人為が関与しうることが、同じ舞台や人物が多重に存在する世界の謎を、あるいはどちらかがオリジナルでどちらかがコピーだという可能性があるのかを、解き明かす要となることを期待したいです。

造物主と構造者

また、構造者という異能者の存在がストーリーの根幹をなす『群青のマグメル』の世界観描写の面からも、造物主という言葉には惹きつけらるものがあります。まず聖国真類の信仰が示されたことでメインキャラクターであるクーへの理解が深まり、ますますエリンたちの思想や文化、それを育んだマグメルという土地への興味が掻きたてられました。こういう未知の理解へのワクワク感は探検・冒険ものの、特にファンタジー要素を含んだ少年漫画の醍醐味でしょう。

エリンとは対立する人類である神明阿一族の信仰も注目したいポイントです。造物主が完全な幻想ではなく具体性を持つ存在なだけに、彼らの現状の神への定義は聖国真類とも一致しているようですが、聖心へのアプローチは侵攻という正反対ものとなっています。重役であるルシスは生命の構造に並々ならぬ興味を抱き、神明阿アミルは神の座を奪おうとしていることを明言しており、一族としての方向性には不明瞭な部分があるもののただの現世利益の追求以上の思惑を感じ取らずにはいられません。もしかしたら「マグメルに愛された人間(聖洲眷顧之人)」ではあるにしろ被造物であり造物主のまがい物に過ぎない構造者が真の造物主となるために、生命の構造を成し遂げることが不可欠だと考えている可能性もあります。

若様と黒獄小隊隊長

アミルとルシスの2人が若様と黒獄小隊隊長であることは間違いないでしょう。しかし神明阿と明確に名乗ったのはアミルの方のみながら上祖たちと共通する顔の特徴を持っているのはルシスの方であることなど、2人の関係にはまだ多くのミスリードが残されているようです。神明阿ウェイドがすれ違う際に呟いた「やはり現実は幻想よりも劇的だな」という言葉へのアミルの意味ありげな反応も、彼の本当の出自とそれに関わる複雑な感情を示唆しているように感じます。この神明阿ウェイドは上祖たちの中でひとりだけ再生死果を口にしなかった人物であり、アススとはまた違った意味で一癖ある言動をしています。第4堅龍要塞へは対ティトールの時間稼ぎに赴くということですが、リーたちや一徒たち懐かしい顔ぶれも揃っているだけに、興味深いバトルが期待できます。ひとりだけという話題では、黒獄小隊19名の最後の1名は第2要塞のフェルミオンという人物だと考えていいようです。彼がひとりだけそこで任に就いているのは第4要塞の3人や第5要塞の14人と違い擬態の幻想構造による後方支援などを担当しているためでしょうか。見た目も他の黒獄小隊隊員よりも戦闘向きでない研究者的な印象があります。

感情の真偽

ティトールと神明阿ウェイドは150年前に戦ったことがあるようですが、クーの言葉からすると150年前にはフォウル国と聖国真類の間でも衝突があったようで、この時に多勢力の関係する相当に大規模な武力衝突が起きていたことは間違いないでしょう。口ぶりからして聖国真類との戦闘には関与しなかったようであるものの原皇として同盟を持ちかけている以上ティトールはフォウル国の責任を負う立場なのですが、それでも審議なしには拒否できないという理由でヨウたちも含めてクーに聖国真類の領域へ向かうことを認められます。

この場面ではクーが規律に従っているようでその実以外と建前を利用しているところとその自覚がなさそうなところが彼らしくて面白いです。普段のふてぶてしさの薄れたヨウに自分まで調子を崩してしまったりする無器用な優しさもまた彼らしさです。ヨウの方はクーたちと会話するうちに何時も通りにイジれるようになったりと精神的にだいぶ回復できているようです。ここで興味深いのはヨウを一番和ませているのがミュフェの気の強さに元気だったゼロを連想したことにある点です。現状ゼロは亡くなってはいないにしても生きているとはいい難く、そんな状態で元気な他人に面影を重ねて嬉しくなってしまうことは危ういごまかしをはらんでいます。ただ、そうすることで救われる感情が存在することはどこかで確かに実感できるものなのでもあるのです。

ヨウはクーとミュフェとの3人でおしゃべりすることで、クーとゼロとの3人でおしゃべりするような懐かしさを味わっています。そんなヨウを見るトトとティトールも、付き合いの短さに見合わない奇妙な懐かしさに囚われます。2人にはその理由を知るすべはありませんが、読者としてそれが黒い瞳のヨウたちの失われた光景であることを知っている私には、懐かしさだけでなくひどく物寂しくなる思いが胸に迫りました。しっとりと琵琶を爪弾くティトールの美しさは、そっけない風を装い認め難く思いながらも、自らを包む感情の特別さを誰よりも知る彼女の胸の内を静かに力強く物語っています。ティトールが拾因に特別の関心があるのも、この仲間としての懐かしさと温かさに複雑な感情を呼び覚まされるゆえのことのようです。普段はエキセントリックで高飛車なだけにこうした一面がふと覗くと印象に残ります。もっともこの顔こそが本物で原皇としての顔が外面的な偽りなのかといえば、それもまた違うのでしょう。女皇様らしさも紛れもない彼女の魅力であるように、他者を攻撃する闇のある顔や感情も彼女自身が培ってきたものだからです。

その時々で浮かび上がる表裏は入れ替われど、つくりあげる者にとって、どの感情が真でどの感情が偽だとはそうそう言えるものではないのだと思います。