群青のマグメル ~情報収集と感想

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群青のマグメル 第31話感想 ~カメラワークへのこだわり

第31話 悲しい背中 20P

原題:未神明阿的邀请(直訳:神名阿からの招待)

第年秒先生は中国人漫画家の中でも日本的な漫画の演出が上手な方です。
子供の頃から日本の漫画に触れている世代というだけに感覚的な理解の下地がある上に、かなり論理的に日本の演出を吸収してご自分の漫画に活かしているのがうかがえます。

第31話は設定説明と会話劇が中心の回で派手な見せ場がない分、いつもにもまして演出に力が入っていて画面が退屈にならないよう気を付けられています。そこで私が初め感想を書く回ということもあり、かなり長めに感想を書いてみることにしました。各場面ごとの視点となる人物の切り替わりとそれに連動したカメラワークにこだわりが感じられる回なのでその部分を中心に感想をまとめています。

まず前回が拾因の死の報告で終わっていたのを受けて、2ページ目ではヨウの中で拾因との思い出が走馬灯のように蘇っている様子が台詞とその配置だけで表されます。直前の扉絵でヨウと拾因の関係が情感豊かに描写されていることもあり、読み手の想像力が掻き立てられる表現になっています。ただ日本語版の扉絵はタイトルロゴの威勢が良いこともあって、若干雰囲気が損なわれてしまっています。文字だけの2ページ目も中文版では文字のレイアウトにデザイン的な配慮がなされていたのですが、ひらがな・カタカナの混じる日本語だとそれを再現するのは難しいようで、読みやすさを優先したバランスに変わっています。

3ページ目は文字だけのページから文字だけのコマを挟んでヨウのアップに移ることでカメラのクローズアップに似た効果を生み、ヨウの表情を強く印象に残します。ここでヨウに一旦クローズアップしきったことで、次のコマは全体を映す引いたカメラのコマとなり視点もヨウたちの様子をうかがう神名阿アミルに移動します。ヨウたちの知り得ない現在の拾因の光景がインサートされることで神名阿アミルに視点が移っていることが強調されます。

神名阿アミルは構造者の部下を集めて聖心への侵入を目論んでおり、聖心近くで拾因の遺体が発見されたことをヨウに伝えたのは遺体の情報を得るためにヨウが進んで自分の部下となることを期待していたからだと考えられます。カメラが神名阿アミルの視点とシンクロしてヨウにクローズアップして行くことで期待の高まりを表し、ヨウが冷静に対処してその期待が裏切られたことが俯瞰的な構図への切り替えと神名阿アミルの顔のアップで表されます。神名阿アミルは表情の殆ど変わらないキャラクターですが、このコマは前後の演出で不満げな表情であることが読み取れるようになっています。

ここで聖心の話題にクーが食いついたことで会話の流れが変化していきます。再びヨウたちの知り得ない光景をインサートすることで視点がまだ神名阿アミルにあることを示しつつ、クーが激怒の表情を見せる場面でも同じコマに冷淡な表情の神名阿アミルを配置することで彼の興味はクーに向いていないこと示します。むしろ後ろでマグメルの話をしだしたエミリアとゼロに関心が移り、二人の会話に加わってしまいます。そして聖心侵入計画を明言したことでクーの本気の殺意を呼び起こし、殺意に気が付いてやっとクーに意識を向けます。

12ページ目では先ほどのコマとはうってかわって激怒するクーの様子が他に邪魔となる人物もなく大ゴマで描かれ、完全にクーの感情に寄り添った演出となっています。視点もここでクーに移ります。しかしようやく怒りを解放させようとした途端に水をさされ、しかもそれがヨウだったためクーはヨウに怒りの言葉をぶつけてしまいます。そしてここでヨウに向き合うことでヨウの様子がおかしいことに初めて気が付きます。クー視点でのヨウの悲しげな表情がアップで描写され、見開きをまたいでそれに衝撃を受けたクーの表情もアップで描写されることで、ヨウが傷ついていることはクーにとってもショックなのだと表現されています。このコマに不安げな表情で様子をうかがうエミリアとゼロも配置されることで、怒りが冷めたクーが周囲を考えられる状態を取り戻したことを示しつつ、エミリアとゼロにとってはクーがヨウの言葉で踏みとどまるのが意外であるという客観的な見方が示されて視点はクーから移動します。

ヨウの視点で神名阿アミルが2つ目の要件である聖心侵入について語った思惑が分析され、クーとヨウを仲違いさせることが目的だったいう推論が出されます。ヨウが戦闘力のないエミリアとゼロの安全を最優先させるならもしクーと戦闘になって神名阿たちが助力を申し出たら断れず借りを作ってしまうことになるでしょうし、神名阿たちにとってはクーを始末するいい機会です。また、拾因の遺体を確認・回収するためにヨウが進んで自分の部下となることも期待していたのでしょう。ヨウはクーと戦うことを最悪の事態と恐れてクーに注意を向けますが、既に冷静になった様子のクーを確認して気持ちに一段落つけます。

そして神名阿アミルに再び視点が移動します。ヨウのほうから部下になるように仕向けるという目論見が崩れてしまったため、神名阿アミルのほうから同格の仲間になるように頼むことになります。この提案に注目する周囲の面々を描写する際に神名阿アミルだけが口元しか描写されていないのも、周囲の様子を観察しつつ話をしている神名阿アミルに視点があることを強調します。次のコマで1つ目の要件を話した時のようにヨウへクローズアップして行くことで神名阿アミルがこの提案に期待を失っていないことが表現されます。

そして少し時間は飛び、提案の顛末は後からやって来たルシスの口から語られます。ここでは一見ルシスに視点が移ったように思えますが、実は視点は神名阿アミルから移動していません。
17ページの最初のコマに縦長に分割された背景ゴマを置くことで時間の経過を示して既に提案の結論が出ていることを読み手に想像させ、横長に押しつぶされたような背景ゴマを細かく挟むことで画面の緊張感を高めつつ焦らします。誰かの歩いている様子が靴と靴音だけフォロー・パン風にインサートされ、その人物が扉を開けてこちら側に入ってくるという最も緊張感の高まったところで次の見開きになります。18ページの最初のコマはその緊張感を受けとめきれる縦長の大ゴマとなっていて、前ページの靴に寄ったカメラ位置を引き継いで足元から部屋を広角レンズ風に切り取る空間表現が見事です。この大ゴマでヨウが提案を断ったという事実が語られることで神名阿アミルの落胆の大きさが表されます。それに続く神名阿アミルの表情も彼にしてはかなり憎々しげなものです。この一連の演出では第年秒先生がファンとして尊敬しているというあだち充先生と冨樫義博先生の得意とする演出がうまく消化されて組み合わされています。
前半部分のコマの積み重ね方にはあだち充先生の演出の分析の成果が感じられます。あだち充先生は80年台の漫画界においていわゆる映画的なコマ運びを少年漫画にまで導入・普及させた立役者で、絵柄の可愛らしさとは裏腹の非常に技巧的で低温なコマ運びで知られています。とりわけ得意としたのがモンタージュ技法的なコマ運びで、単体では意味が薄く思える背景だけのコマや台詞のないコマ、無表情に近い顔のアップゴマなどの計算された積み重ねでキャラクターの心情や場面の情感を豊かに表現していました。一般的にはあだち充先生は「間」が上手いという言い方をされることが多いようです。
大ゴマの構図においては冨樫義博先生の影響が強く出ています。奥行きのある空間表現をすることで書き込みに頼らずともコマごとの情報量を上げることができるという考え方です。広角レンズ風の構図を押し付けがましならないように調整できているのもよく研究しているのが感じられます。冨樫義博先生の空間把握能力の高さはわかりやすくて迫力のあるバトル描写で発揮されるだけでなく会話劇の面白さにも活かされており、それが取り入れられています。
この他の場面でもコマごとの構図や絵柄に関しては冨樫義博先生の影響が強いのですが、全体的なコマの積み重ね方や間のとり方はあだち充先生の影響が随所に現れています。

この後は黒獄小隊隊員の3人の人柄を表す会話などがあり、神名阿たちの前から離れたことで改めて拾因の死を噛みしめるヨウの姿で次回への引きとなっています。


2017/05/15に2P目の台詞の詳細についてのページを作成しました。