群青のマグメル ~情報収集と感想

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不定期感想文:『屍者の13月』第16話

前回で定期的な感想は終わりにしましたが、今回補足すべきことが見つかったのでその点について書きます。

自分だからこその選択

日本語版の高皓光の独白は

他人の護符の力を発揮できるからって
俺一人で何ができる?
誰かに頼らなければ何もできない…
今の俺は弱すぎる
だから絶対に
天命の神通に目覚め
自分で選べるようになるんだ!

ですが、中文版は以下のようになります。

凭我一个人我能做得到什么呢?
即便可以充分使用他人的符箓,
但还是需要依靠他人。
我… 太过弱小,
必须…
拥有本命神通,才有的选择!

(直訳)

「俺一人で何ができる?
 他人の護符を充分に使えるとしても
 他人に頼る必要がある
 俺は… 弱すぎる
 必要だ… 本命神通を持つからこその選択が!」

日本語版では他人の符の力を発揮する能力が自分の神通の一部だと高皓光が認識しておらず、むしろ恥じて、独力ですべてを解決できるたぐいの神通を望んでいるような口ぶりです。中文版では自分の神通の特性と独力の限界を認識した上で、だからこそ取れる選択を望んでいる印象です。

見殺しを選ぶことの愚かさ

また作品のテーマを考える上で重要になるのが、中文版の「选择(選択)」という言葉です。

高皓光が黒山村で村人を助けるべきだと思いつつも葛藤のせいで結局は何もできなかった時に、姜明子は以下のように独白しました。

避けなかったのはわざとか?
それとも無意識か? いや──… その両方か──…
決断することから逃げた時点で その先に正しき道などない!!!!
いいだろう… ならば自分の運命に向き合えるように 傍観者の立場で最後まで見届けるがいい

 中文版でも日本語版と同じニュアンスのセリフですが、3行目の太字のセリフが

内心的冲突,令你逃避了这如何都是错的选择。

となっています。ここでも「选择(選択)」という言葉が使われていました。

 「选择(選択)」という言葉を共通させたことで、姜明子が内心咎めた内容は言われずとも高皓光もわかっていることを強調しています。高皓光は積極的な選択をしなかったことで、消極的ながらも一番誤った選択をしてしまったのです。

消極的ながらも一番誤った選択といえば、黒山村の大人たちの大半が取った選択もまさにそれでした。

高皓光が黒山村の大人たちをなじったセリフで、日本語版では「卑怯」という言葉が印象的に使われていました。しかし中文版では異なる表現が使われています。

まず第5話で白小小を殴った村長に対して高皓光が説教をした部分のセリフだと、日本語版で「卑怯者」となっている部分は中文版では「懦夫(臆病者)」です。

中文版に準拠させると

「俺の師匠が言ってたぜ
 臆病者ほど弱者を叩くってね
 そして臆病者は弱者になる資格すらないってね」

となります。この部分のみ抜き出すと「臆病者は弱者になる資格すらない」が厳しすぎる印象になるため「懦夫」を「臆病者」でなく「卑怯者」と訳したのでしょう。ただここで問題にされている「怯懦(臆病)」とは、あくまで自分の弱さを認める勇気を持たずに自分の弱さを他の弱者へ押し付けることです。具体的には生贄の役目を放棄されたと勘違いして村長が白小小を殴りつけたことです。この時点では売り言葉に買い言葉の状況に陥っていないので、明らかに力量の及ばない三眼に対して村人が降伏し、生贄を差し出したことそのものはまだ責めていません。

村長との口論の最後に高皓光が言ったセリフである

お前たちなんて自分の弱さを認めたくないただの卑怯者だ!

你们不过是… 为自己软弱和下作找借口罢了!

(直訳)「お前たちは… 自分の弱さと下品さの口実を探しているだけだ!」

というセリフがまさに村人の本質をついています。自分の家族だけを守るために白家を見殺しにした村人の多くは、積極的に卑怯な選択はせずとも、消極的には紛れもなく卑怯な選択をしたのです。

ただこの口論が終わった時点ではまだ白小小は村人の臆病で卑怯な行為を許容していました。村を守るために他人を三眼に捧げるという行為自体は、白小小も高皓光たちに対し行っています。白小小の心が決壊したのは別の理由のためです。三眼の方から村に生贄を要求したのではなく、村長らが自分から生贄の提供を持ちかけて保身を図っていたという事実が告発された上に、白家迫害の口実にされていた伝承の加害者・被害者関係が逆だったと明かされたからです。白小小は過去の因縁に囚われ、積極的に生贄を差し出した村長も消極的に見殺しにした村の大半の大人も無差別に殺害してしまいました。ただし何も事情を知らなかった村の子どもたちの嘆きを前に我に返ったことが最期の救いとなりました。

なお村人の虐殺を前にした高皓光のセリフも中文版と日本語版ではニュアンスが異なります。日本語版では高皓光が白小小に

それよりも今は… 小小姉… 確かにこいつらは下衆な卑怯者たちだけど… 皆殺しなんてよくない……

と語りかけています。皆殺しを止めてはいるものの、言った本人も全く信じていない綺麗事を一応表明してみただけという印象が強いです。

中文版では高皓光が村人たちに

只是现在… 以人的立场,你们当中的大多数人… 还不该死。

(直訳)「ただ今は… 人としての立場から言えば、お前らの大多数は… それでも死ぬべきじゃない」

と語りかけています。村人の大部分は明らかに殺されるべきでないという人としての道義は理解しつつも、白小小の気持ちもわかるため、綺麗事に徹しきれず葛藤が滲んでしまっているセリフです。

三眼から自分の家族を守るため、さらには清朝末の乱世から村を守るという名目が立てられたためとはいえ、村長が法屍者相手に交渉が成立すると思い込んだことはあまりにも愚かです。三眼は三眼なりの理屈を持っていましたが、その理屈が人間の把握を越えたものだったため黒山村は滅びました。

もしかしたら黒山村の村長は他にも三眼に生贄を捧げる村があるから大丈夫だという根拠にならない根拠にすがってしまったのかもしれません。日本語版では省略されていますが、中文版では3つの村が三眼に生贄を捧げていたという説明があります。日本語版でも第7話で三眼が黒山村以外の村から生贄を受け取ったことを語る場面が残っています。

さらに黒山村には他の村にもまして生贄にうってつけの一家がいました。また他の人間がやっているから大丈夫だという愚かさ、臆病さは黒山村全体にも蔓延していたはずです。この臆病さを自制できていればあるいは光に救われる未来もあったことでしょう。

しかし自業自得の面もあるとはいえ、あまりに被害が拡大し、被害者でありながら加害者となった白小小が、悲劇の中で亡くなってしまったことはやはり理不尽です。この理不尽は運命が仕組んだものです。運命に抗うべきか受け入れるべきかは作品によって、さらには登場人物によって異なってくる部分ですが、三真同月令は運命に抗うために生まれたものだといいます。高皓光には三真同月令に選ばれた者ならではの選択をしてほしいです。