群青のマグメル ~情報収集と感想

『群青のマグメル』と第年秒先生を非公式に応援

不定期感想文:『屍者の13月』第16話

前回で定期的な感想は終わりにしましたが、今回補足すべきことが見つかったのでその点について書きます。

自分だからこその選択

日本語版の高皓光の独白は

他人の護符の力を発揮できるからって
俺一人で何ができる?
誰かに頼らなければ何もできない…
今の俺は弱すぎる
だから絶対に
天命の神通に目覚め
自分で選べるようになるんだ!

ですが、中文版は以下のようになります。

凭我一个人我能做得到什么呢?
即便可以充分使用他人的符箓,
但还是需要依靠他人。
我… 太过弱小,
必须…
拥有本命神通,才有的选择!

(直訳)

「俺一人で何ができる?
 他人の護符を充分に使えるとしても
 他人に頼る必要がある
 俺は… 弱すぎる
 必要だ… 本命神通を持つからこその選択が!」

日本語版では他人の符の力を発揮する能力が自分の神通の一部だと高皓光が認識しておらず、むしろ恥じて、独力ですべてを解決できるたぐいの神通を望んでいるような口ぶりです。中文版では自分の神通の特性と独力の限界を認識した上で、だからこそ取れる選択を望んでいる印象です。

見殺しを選ぶことの愚かさ

また作品のテーマを考える上で重要になるのが、中文版の「选择(選択)」という言葉です。

高皓光が黒山村で村人を助けるべきだと思いつつも葛藤のせいで結局は何もできなかった時に、姜明子は以下のように独白しました。

避けなかったのはわざとか?
それとも無意識か? いや──… その両方か──…
決断することから逃げた時点で その先に正しき道などない!!!!
いいだろう… ならば自分の運命に向き合えるように 傍観者の立場で最後まで見届けるがいい

 中文版でも日本語版と同じニュアンスのセリフですが、3行目の太字のセリフが

内心的冲突,令你逃避了这如何都是错的选择。

となっています。ここでも「选择(選択)」という言葉が使われていました。

 「选择(選択)」という言葉を共通させたことで、姜明子が内心咎めた内容は言われずとも高皓光もわかっていることを強調しています。高皓光は積極的な選択をしなかったことで、消極的ながらも一番誤った選択をしてしまったのです。

消極的ながらも一番誤った選択といえば、黒山村の大人たちの大半が取った選択もまさにそれでした。

高皓光が黒山村の大人たちをなじったセリフで、日本語版では「卑怯」という言葉が印象的に使われていました。しかし中文版では異なる表現が使われています。

まず第5話で白小小を殴った村長に対して高皓光が説教をした部分のセリフだと、日本語版で「卑怯者」となっている部分は中文版では「懦夫(臆病者)」です。

中文版に準拠させると

「俺の師匠が言ってたぜ
 臆病者ほど弱者を叩くってね
 そして臆病者は弱者になる資格すらないってね」

となります。この部分のみ抜き出すと「臆病者は弱者になる資格すらない」が厳しすぎる印象になるため「懦夫」を「臆病者」でなく「卑怯者」と訳したのでしょう。ただここで問題にされている「怯懦(臆病)」とは、あくまで自分の弱さを認める勇気を持たずに自分の弱さを他の弱者へ押し付けることです。具体的には生贄の役目を放棄されたと勘違いして村長が白小小を殴りつけたことです。この時点では売り言葉に買い言葉の状況に陥っていないので、明らかに力量の及ばない三眼に対して村人が降伏し、生贄を差し出したことそのものはまだ責めていません。

村長との口論の最後に高皓光が言ったセリフである

お前たちなんて自分の弱さを認めたくないただの卑怯者だ!

你们不过是… 为自己软弱和下作找借口罢了!

(直訳)「お前たちは… 自分の弱さと下品さの口実を探しているだけだ!」

というセリフがまさに村人の本質をついています。自分の家族だけを守るために白家を見殺しにした村人の多くは、積極的に卑怯な選択はせずとも、消極的には紛れもなく卑怯な選択をしたのです。

ただこの口論が終わった時点ではまだ白小小は村人の臆病で卑怯な行為を許容していました。村を守るために他人を三眼に捧げるという行為自体は、白小小も高皓光たちに対し行っています。白小小の心が決壊したのは別の理由のためです。三眼の方から村に生贄を要求したのではなく、村長らが自分から生贄の提供を持ちかけて保身を図っていたという事実が告発された上に、白家迫害の口実にされていた伝承の加害者・被害者関係が逆だったと明かされたからです。白小小は過去の因縁に囚われ、積極的に生贄を差し出した村長も消極的に見殺しにした村の大半の大人も無差別に殺害してしまいました。ただし何も事情を知らなかった村の子どもたちの嘆きを前に我に返ったことが最期の救いとなりました。

なお村人の虐殺を前にした高皓光のセリフも中文版と日本語版ではニュアンスが異なります。日本語版では高皓光が白小小に

それよりも今は… 小小姉… 確かにこいつらは下衆な卑怯者たちだけど… 皆殺しなんてよくない……

と語りかけています。皆殺しを止めてはいるものの、言った本人も全く信じていない綺麗事を一応表明してみただけという印象が強いです。

中文版では高皓光が村人たちに

只是现在… 以人的立场,你们当中的大多数人… 还不该死。

(直訳)「ただ今は… 人としての立場から言えば、お前らの大多数は… それでも死ぬべきじゃない」

と語りかけています。村人の大部分は明らかに殺されるべきでないという人としての道義は理解しつつも、白小小の気持ちもわかるため、綺麗事に徹しきれず葛藤が滲んでしまっているセリフです。

三眼から自分の家族を守るため、さらには清朝末の乱世から村を守るという名目が立てられたためとはいえ、村長が法屍者相手に交渉が成立すると思い込んだことはあまりにも愚かです。三眼は三眼なりの理屈を持っていましたが、その理屈が人間の把握を越えたものだったため黒山村は滅びました。

もしかしたら黒山村の村長は他にも三眼に生贄を捧げる村があるから大丈夫だという根拠にならない根拠にすがってしまったのかもしれません。日本語版では省略されていますが、中文版では3つの村が三眼に生贄を捧げていたという説明があります。日本語版でも第7話で三眼が黒山村以外の村から生贄を受け取ったことを語る場面が残っています。

さらに黒山村には他の村にもまして生贄にうってつけの一家がいました。また他の人間がやっているから大丈夫だという愚かさ、臆病さは黒山村全体にも蔓延していたはずです。この臆病さを自制できていればあるいは光に救われる未来もあったことでしょう。

しかし自業自得の面もあるとはいえ、あまりに被害が拡大し、被害者でありながら加害者となった白小小が、悲劇の中で亡くなってしまったことはやはり理不尽です。この理不尽は運命が仕組んだものです。運命に抗うべきか受け入れるべきかは作品によって、さらには登場人物によって異なってくる部分ですが、三真同月令は運命に抗うために生まれたものだといいます。高皓光には三真同月令に選ばれた者ならではの選択をしてほしいです。

『屍者の13月』第15話感想 ~忘れられない思い

第15話 三川の三つの真実 24P

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高皓光と黄二果が帰宅し、黒山村の話を総括するやいなや、新たな戦いの舞台である三川に飛ばされました。

弱さを認める強さ

黒山村では大変な惨劇が起きましたし、その一因に高皓光の判断力などの様々な面での力不足があったことは事実です。9/27ページの最下段のコマで、彼の瞳に白小小の最期の姿が焼き付いているように、救えたはずの人間を救えなかったことは一生忘れてはならない後悔です。

しかし高皓光には宿命に終止符を打つという宿命があり、ここでくじけてはいけないことも確かです。彼が歩みを止めないことを決意しただけでなく、自分の力不足を認められたことには確かな成長が感じられて嬉しくなりました。黒山村では村人が自分の弱さを認めることから逃げている点を上から目線でなじっていましたが、いざ自分がその立場となったときはきちんと成長の糧にできたのです。

自分の弱さを認める強さを持つこと、それは他人と協力する必要性を認めることにも繋がります。他人の符の力を100%以上に発揮する高皓光の神通とは、彼のこうした強さを反映したものなのでしょう。

千年を越える思い

三川では1906年と2020年にも法屍者が出現しました。2020年の法屍者はどうにか生き延びていた上官宵のようですし、1906年の法屍者はおそらくあの後に法屍者となって若返った趙炎のようです。2人は法屍者となり千年以上の時を越えました。

そういえば彼らの流派である忘川法門の「忘川」には、男女の再会にまつわるある伝説があります。忘川とは中国における三途の川のことであり、この川を渡った人間は記憶を失い新しい命に生まれ変わるとされています。しかし忘れ薬である孟婆湯を飲まずに千年間の試練に耐えた者には、記憶を持ち越したまま前世の恋人を再び探す権利が与えられるといいます。

趙炎と上官宵の運命はどうなるのでしょうか。

 

 

私事都合により、『屍者の13月』に関する定期的な感想の更新は今回で最後にします。今後も不定期での更新は行う予定です。

『屍者の13月』第14話感想 ~理論と実例、そして実践

第14話 三川で法を説く 38P

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今回の舞台は西暦2020年の三川です。段星煉の受ける授業というかたちで設定の解説と整理が行われました。

西暦2020年の群星たち

解説の多い回だけにアクセントとなる周六晴のアクションには力が入っています。周六晴の我の強さとそれに見合うだけの実力者ぶりは魅力的です。こういう格好良いお姉さんキャラは自分のツボです。ところで中国語では「阿〜」に日本語の「〜ちゃん」にあたる意味があります。そのため「代罪の呆ちゃん」の中国語表記は「代罪阿呆」です。日本人からすると苦笑する名前ですが、中国語で阿呆と書いても単なるあだ名で、アホという意味はありません。『クレヨンしんちゃん』の「ボーちゃん」の中国語表記も「阿呆」だそうです。

またこの時代の主人公である段星煉の意外に癖の強い性格にも興味が引き付けられます。単に気弱で体が弱いだけでなく、尖った攻撃性を秘めているタイプです。いきなり暴力を選択肢に入れるキャラは危なっかしい反面、うまく爆発力がハマれば大きく局面を変える可能性もあります。

今回の解説役である呉山先生も定番の食えない老人ながらいいキャラをしています。

屍者の増え方

屍者の設定で特徴的なのは基本的に屍者自身が屍者を増やすことはできないという点ですね。吸血鬼にしろゾンビにしろ、フィクションのアンデッド系のモンスターは一般モンスターにも仲間や眷属を作る能力が備わっている場合が多いです。しかし屍者を増やせるのは、不屍王という吸血鬼では真祖に当たる存在だけです。また魂を受け継がせることで種族を受け継がせるタイプの魔物が登場する作品もありますが、屍者には基本的にそうした能力はないようです。

こうした性質の擬似的な例外に当たるのが黒山村の三眼です。三眼の神通である借元真目は他人を傀儡化する能力です。傀儡にされた死体は三眼の妖力を帯びるためか屍者に近い性質を得ていましたが、本物の屍者とは体の弾力が異なり力も弱かったようです。

力の誘惑に負ける弱さ

三眼は白小小に借元真目を貸しました。しかしあくまで自身の意識喪失によって操作権までもを貸すことができただけです。借元真目が白小小の天賦の神通になったわけではありません。白小小が法屍者になったわけでもありません。日本語版では改変されましたが、中文版では第6話で三眼自らが借元真目の解説をした際に貸与についても言及していました*1。この神通の貸与とは、符・宝・身によって始祖の法師が門下生も力を使えるようにするのと似たようなものだったのでしょう。

三眼の傀儡となった白小小は致命傷を負ってからもしばらくは意識を保っていましたが、根本的には人間の肉体のままであるためほどなく亡くなりました。もし怪我を負わずに生き続けた場合、力は徐々に消耗して無くなってしまったのか、もしくはある程度残り続けたのかという点は解明されませんでした。個人的には前者かなと思います。

屍者と他作品のモンスターとの違いといえば、吸血鬼や悪魔などが持つ精神操作の能力も基本的に屍者には備わっていないようです。黒山村の村人たちや白小小は三眼の意のままに誘導されましたが、それは屍者の強大な力という誘惑に屈してしまった人間たちの肉体的な、更には精神的な弱さの故なのでしょう。

屍者と世界

こうした屍者や不屍王の性質を鑑みるに、黒山村の三眼・白小小・村人という関係は、世界全体の不屍王・法屍者・一般人社会という関係の縮図になっていたようです。三眼の人間性の欠如ぶりも、屍者が人間を食べるのは自然の摂理と言って憚らなかったのも、メタ的な役割として三眼が不屍王に擬せられていたためでしょう。また三眼は1906年の人間には知りようがなかった基準によって力を貸す人間を一方的に選んでいましたし、万業の血を引き寄せて法屍者になる人間の基準もやはりまだわかりません。ただし周六晴が皮肉ったように、「選ばれし者」が法屍者になれるなどという中二病めいた基準でないのは確かです。

三眼は短絡的ながら悪気なく、むしろ好意で白小小に力を授けました。しかしその暴走を高皓光が止められなかった結果として引き起こされたものは、悲劇に他なりません。魔の力で魔の手段を取った者が得る幸福はかりそめのものでしかないのです。本人にとっては多少の救いとなる面もあるかもしれませんが、結局は破滅的な終わりを余儀なくされます。さらに大勢の他人に不幸で理不尽な死を押し付けてしまう手段でもあります。主人公である高皓光には、黒山村のような悲劇から世界を救える人間になってくれることを期待します。

*1:(日本語版)

操る相手は生きてようが死んでようがどちらでも構わないけどこの眼を通して傀儡と意識が繋がってるから
意識があると体が拒絶反応を起こして四散してしまう
操ることができるのは体だけだけどどうせ操るんだし
はじめから死んでてくれたほうがラクかな

(中文版)

被此目所施放的术法击中之人或者死人,都将成为咱的傀儡,可以控制它们的四肢,可惜只能四肢。所以还是死尸好用。
咱也可以把此目借与傀儡,当然,
只要咱意识健在,就算身体四分五裂。
此神通依然会由咱所控。

(直訳)

この目から放たれる術に当たった人間や死人は、オレの傀儡になって、そいつらの四肢を操れるようになるが、残念なことに四肢だけだ。だから死体の方が扱いやすい。
傀儡にこの目を貸すこともできる、当然、
オレの意識がある限りは、体がバラバラでも。
この神通力は依然オレが制御する。

『屍者の13月』第13話感想 ~忘川と三川

第13話 三川の従事 28P

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西暦500年で姜明子は旧友が法屍者となっていることを突き止め、彼らが法主を務める忘川法門を消し去りました。

前回の不逞軍人は度々兵士が消えるという噂の犯人は目の前にいる女(に化けた姜明子)ではと疑いましたが、真犯人は法術で姿を隠した忘川術院でした。軍人の暴虐を訴える趙炎の言い分は筋が通っていますし、ある程度本気でもあるのでしょう。しかし本当の目的は法屍者となった上官宵に生贄を捧げることだと姜明子に看破されます。

日本語版だと上官宵のことを姜明子が宵と呼び趙炎が姉さんと呼んでいます。そのため上官宵と趙炎の関係が確定できません。中文版だと姜明子が上官宵と呼び趙炎が师姐(師姐)と呼んでいるので、2人は親類ではなく段星煉・周六晴と同じ姉弟弟子の関係だとわかります。上官は希少な姓ですが、武侠小説『小李飛刀』の上官金虹・上官飛親子など、フィクションではそれなりによく見かける姓です。

三者視点から軍人と忘川法門を比較するなら前者のほうが醜悪だと言えなくもありません。実際に姜明子は行きがかりの不逞軍人をためらいもせず殺害しました。しかし獣の生死に無関心な彼の目的は人間社会の善悪などに置かれておらず、あくまで法屍者を根絶し、宿命に終止符を打つことにあります。かつての旧友で筋の通った言い訳を使う相手だろうと、屍者や屍者を匿う者は滅する覚悟を固めています。

ただし常人と価値観の違う姜明子とはいえども、今回の討滅には複雑な感情を覗かせています。回想からして、かつての姜明子と趙炎・上官宵は年が近いためか兄弟のような交遊を持っていたようです。それが西暦500年では強大な仙人である姜明子は若いままで、強くとも姜明子ほどではない趙炎は老いぼれています。そして上官宵は趙炎の口ぶりからすると2年前に老衰死し、万物屍仙(不屍王)の血が出現したことで蘇って、若い外見となったようです。3人の立場は昔と大きく変わってしまいました。こもごもの情とそれ故の悲憤は姜明子と趙炎・上官宵のお互いが感じてるようです。しかしそれでもいざ殺し合うとなれば覚悟を決めて潔くなれるところは武人らしくて小気味いいですね。演出も大胆な見開きの構図が決まっていて格好良いです。黒山村のような粘着質でじっとりした常人同士の殺し合いとはテイストが全く違います。また姜明子は屍者を法主が匿った忘川法門を消し去るにしても、一門皆殺しなどにはせず、弟子たちに対しては記憶と知識を奪うに留めます。

前々回の第11話で西暦2020年の三川市には巨大な岩が鎮座していることが描写されており、それが今回で彼らの戦いにより残されたものだと判明しました。忘川術院のあった場所がその後の三川市です。さらに段星煉が読んでいた高皓光の日記によれば、これから高皓光も三川鎮に訪れて何らかの事件に遭遇するようです。3人の伝承者の運命がどう絡んでいくのか楽しみです。

『屍者の13月』第12話感想 ~西暦2020年の光と影

第12話 三川のあの日 26P

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西暦2020年の三真法門

3人目の伝承者である段星煉の暮らす2020年の三川が描かれました。

段星煉は一見おとなしそうなキャラですが、同月令を使って737人の法師を抹殺したいという過激な目的を持っています。ただし人数が具体的なので、単に大量殺人をしたいのでなく、何らかの理由で抹殺したい具体的な敵なり組織なりがいるようです。白小小の話を聞いてもなお大量殺人がしたいのですから、よほど強い動機と覚悟があるのでしょう。深い闇を覗くような経緯があるはずです。

西暦2020年は高皓光の理想とする科学の発達した世の中です。しかし理想はひとたび実現してしまえばただの現実になります。現実の世で生きる者には、理念の光の面だけでなく影の部分にも向き合う必要があります。

その動機と関係しているのか定かではありませんが、今回の冒頭ではおそらく未来の段星煉が瀕死の重症を負っています。ともに死にかかっている女性は姉弟子の周六晴でしょう。やはり残酷な運命に従うだけでは残酷な結末から逃れられないのです。ただし未来で親しい人の危機を前にして憤ったことで、段星煉は時間の壁を超えて同月令を起動させ、運命に抗う力を授かるようです。この力は前回で現在の段星煉が望んでいた力です。親しい人の危機を前にして憤ったことで力を授かる、という経緯は高皓光とも共通しています。得た力で段星煉にも親しい人を救ってほしいのはもちろんですが、どうにか彼自身も助かってほしいです。

周六晴は格好良いお姉さんタイプで自分のツボに入りました。やや傍若無人ですが、段星煉とのやり取りからは確かな絆を感じます。段星煉の過激な望みも好ましく受け取っており、なかなかクレイジーです。彼女が段星煉の動機の背景を知っているかどうか気になりますね。

西暦500年の忘川術院

西暦500年の姜明子は西暦525年の彼以上に性悪です。どうやら忘川術院という法術の本拠地に殴り込みをかけたようですが、幻術で隠された門を探すついでに女に化け、近くの不逞兵士たち数人を抹殺しています。彼の性格からすると、世直しのためというより、不逞兵士は嫌いな虫以上に汚らわしいので自分の目の前から排除したいということなのでしょう。西暦525年の姜明子は殺人でなくもっぱら無人の地で生活することで汚らわしい俗世から遠ざかっています。

第2話からすると三真同月令の術を完成させた姜明子のようですが、西暦500年の時点の彼は既に術を起動させているのでしょうか。彼にも他の2人のように同月令を起動させるきっかけはあったのでしょうか。そもそも同月令はいつどのような方法で作られたのでしょうか。謎はまだまだたくさんあります。

忘川術院の忘川とは中国の民間伝承でいう三途の川のことです。忘川河(忘川)を渡る魂はそれまでの記憶を失って新しい命に生まれ変わるといいます。また今回のエピソードの主な舞台となる地は三川のようです。三途の川という呼び方は基本的に日本特有のものですが、この三川という文字からも彼岸に渡る川が連想できます。さらに三川という地名は現実にも複数箇所存在するだけでなく、三人の三真同月令に選ばれし者を表す「三」と、それを90度回転させた「川」が組み合わさったものになっています。こだわりを感じる舞台設定です。

『屍者の13月』第11話感想 ~新たな光

第11話 千年の交錯 44P

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三眼と運命の導きに従った結果、白小小は亡くなってしまいました。高皓光たちは白小小の命を救うことはできませんでした。しかし両者が出会わずにあのまま三眼に食われてしまうよりは、白小小は安らかな顔で人生を終えることができたはずです。

今回は中文版の《日月同错》第十一回 千年同错 上第十一回 千年同错 下

第十二回 一刻序幕を合体させた内容です。そのため扉絵などの順番を組み替えていますが効果的な演出として活かされていると思います。第十二回 一刻序幕の扉絵は日本語版だと省略されているので、もし見たいなら中文版の公式配信サイトにアクセスして確認することができます。

暮れ初める525年と明け初める1906年

姜明子によれば、高皓光が試みた方法ではやはり白小小の命を救うことは不可能だそうです。せめて第9話で高皓光が逃げずに何らかの働きかけができていたら、運命に抗うすべもあったのかもしれません。しかしもはや死の運命に従うしかない状況となり、痛ましい限りです。姜明子の「人を殺すは易し救うは難し」という言葉は、白小小の行為にも白小小自身にも重く響くものです。

高皓光が白小小の命を救う仙丹を求めて穴を掘る一方、姜明子のそばで白大は友を葬るための墓穴を掘っています。鮮烈な対比には残酷ささえ感じます。そしてとうとう姜明子サイドの時系列が第4話の前半部分に追いつきました。姜明子もやはり傍観者に甘んじるしかない自分に無力感を覚えています。普段ひたすら尊大で他人を良いように使う姜明子にすら、運命を変えて白大を救う方法はないのです。あの性悪男が彼なりに心を痛めている様子は興味深いです。絶大な法力を持つ彼だからこそ、抗い難く残酷な運命という存在になおさら思うところがあるようです。彼の珍しく沈痛な表情や善良な人間の行く末を惜しんだ気持ちは、その常人離れした姿勢や行動原理を理解するにあたっての重要な材料となるはずです。

闇の中の黒山村

白小小の命を救うことができなかったのは彼女が生きる意志を失ってしまったためです。
以前に書いた文章との重複が多いですが、改めて白小小と村の内外の関係について整理します。

第5話で白小小は村の外で生きる意欲を持ってくれていました。しかし彼女は村の価値観と三眼の言葉に囚われ、本当に世界を変える力である誰でも使える力(=科学)とは違う法屍者の力によって村の大人を殺害してしまいました。これは一見彼女を解放してくれたように見えつつも、実際のところ古き悪しき構造そのままに、暴力を振るえる人物と罪人の立場がただ入れ替わったに過ぎないものです。ただし白小小は先祖の借りを子孫が支払うという村の価値観に囚われきらず、子どもたちは殺害せずに、現在の過剰な復讐という罪を背負って子どもたちの刃を受け入れました。白小小が村の外を垣間見ることができたのはそのためでしょう。

村人が立場の弱い人間を犠牲にして生き抜こうとしたことは乱世にはありがちながら、その弱い人間が下剋上を起こしこれまでの借り以上に虐げ返すこともまた乱世にはありがちです。そうした乱世の定めに従って生き抜いた人間が後の新しい世の礎となる場合も珍しくはありません。しかし乱世に自ら身を沈めた白小小は、新しい世の光を見ながらも、そちらで生きようとは思ってくれませんでした。無念さの残る展開です。

ここにはない晴天のもと

それでも、白小小は最期に穏やかな表情を浮かべることができました。ただの夢か、あるいは魂として巡り合ったのかは定かではなくとも、亡くなった両親と再会して笑顔を浮かべることもできました。高皓光は白小小の命こそ助けられませんでしたが、少なくとも第4話で胸に抱いた「そんなのダメだ!両親に会いたいというなら そんな苦しそうな顔してちゃいけない」という決意が結果的に実を結んだのです。高皓光は運命により黒山村に介入し、結果的に大事件の引き金となりました。そして三眼に生贄を捧げた3村の中で黒山村だけが壊滅したことはほとんどの村人にとって不平等で理不尽な天命となってしまいましたが、白小小にとっては高皓光の介入がささやかながらも救いになったと信じたいです。

西暦525年の白家と西暦1906年の白家が交錯する場所は賑やかな街のイメージに彩られています。これは白小小が村の外を見たことを反映しているのでしょう。中文版で三眼は白大に対して「在天之灵(天にまします霊魂)」という決まり文句を使っていましたし、白小小も両親に対してこの「在天之灵」という表現を使っていました。あるいはこの街は白小小の考える「天」なのかもしれません。

3つめの光は星

まさに高皓光の望んだ新しい世である2020年で、1人の少年が高皓光の日記を読んでいます。この少年は第1話から登場していますが、とうとう顔と段星煉という名が明かされました。話の流れからすると彼が3人目の同月令に選ばれた人間のはずです。人となりの詳細に興味をそそられます。

名前やキャラに重ねられた背景からして、高皓光が月、姜明子が日、段星煉が星のイメージを受け持っているようです。

段星煉が日記を読んで痛感した運命の残酷さ、それがこの黒山村のエピソードの主題であるはずです。高皓光も白小小も、さらに姜明子も、まだ運命には抗えずにただ従うしかありませんでした。しかし高皓光は新たに、姜明子は改めて、それぞれに運命の残酷さを実感しましたし、日記を通じてそれを知った段星煉も運命に抗う方法に関心を持ちました。本当の意味ではこれで終わりになどならないでしょう。

運命に操られ、黒山村の大人たちは白小小も含めて皆非業の死を遂げました。彼らもただ憐れまれるだけの人生を送ったわけではありませんが、それでももう少し全員の納得の行く人生が送れても良かったはずです。これから先のエピソードではせめてこの教訓を生かしてもっと幸福な結末を迎えられるよう祈りたいです。

『屍者の13月』第10話感想 ~山の外へ

第10話 千年の世界 24P

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白小小は村の大人たちを殺害し、村の子どもたちに刺し貫かれましたが、かろうじて生きています。高皓光は彼女を救おうとします。

山の中の価値観

第8話でも第9話でも、高皓光は村人を助けるためというよりも白小小に罪を背負わせないために彼女を止めようとしていました。その懸念どおり、村の大人たちを皆殺しにした白小小は生きる希望を失ってしまいました。見てみぬふりをした大人たちを殺害したことはまだしも、何も知らない子どもたちを傷つけてしまったことに対する後悔が強いようです。

初対面の時から両親を生贄にされ絶望していた白小小でしたが、第6話では山の外の世界に興味を持ち、生きることに前向きになってくれそうでした。それだけに必要以上の殺人を止められず、再び生きる気持ちを失わせてしまったことには、やるせない気持ちになります。

山の中の世界である黒山村では、この一年白小小にとって辛いことばかりが起きました。

村人は醜悪に自分たちの利益を追求し、弱い立場にあった白家を進んで生贄として差し出すか、あるいは見てみぬふりをするかしました。自分たちだけの命を守ろうとしたのです。最近も白小小が子どもに懐かれていた様子を見れば、第6話で自ら語ったようにかつては白家と村人がうまくやっていたというのは本当なのでしょう。しかしだからこそ許せない思いがあるはずです。

三眼は千年以上を隔てて黒山村に現れ、死の恐怖で村人の悪性をむき出しにさせました。白小小の両親を食い殺したのも三眼です。白大の子孫は食べないというルールは村人の知りようがなかったものですが、それに反する生贄が捧げられたことで結果的に村人を死へ導きます。「借りは必ず返す」というモットーを守り、村人は直接殺さず、ルールに反して恩人の子孫を食べてしまった借りを返すため白小小に敵討ちをさせました。白小小に力を授けて自らも死にましたが、彼女の未来や命を守ろうとしませんでした。三眼が守りたいのはあくまで自分の美学ですべてをコントロールできている状態です。三眼は命を積極的に踏みにじらないかわりに関心も薄く、自分の命でさえも美学のために捧げます。

この両極端な二者に挟まれて白家は犠牲となりました。

まだ山の中にいる子どもたち

白小小が村の子どもたちを殺さずにいてくれたことはせめてもの希望かもしれません。高皓光によれば子どもたちは伝教師に保護してもらえるだろうとのことです。ただ子どもたちを数百人の死体が転がる山中に置き去りにするしかなかった点は後味が悪いです。心情を考えればやむを得ないとはいえ、高皓光たちは子どもたちに直接銀票を渡さず、助けについての説明をちゃんとしたようでもなく、ぶっきらぼうに接してしまいました。子どもたちは親しかった近所のお姉さんに家族を殺され、自分もそのお姉さんを殺してしまっています。これから乗り越えなければならない苦労が多く待ち構えているでしょう。親の仇を討てたことがせめてこの時代にあっては前向きに働いてくれることを期待します。

白小小は村の子どもたちを生かして白家が滅びることですべてを終わらせようとしました。先祖の借りを子孫に返させるという古く悪しき理を超え、村の人間や三眼を超えたことになるのかもしれません。しかし黒山村に関わった者すべてが消えない傷を受けてしまい、特に西暦525年の人間同士の争いでも先に被害者にされた白家の人間が最後の負債を引き受けさせられたことには理不尽を感じます。西暦1906年時点の世の理では、まだどちらかが滅びることでしか復讐の連鎖は終わらないのでしょうか。あるいは時代を変えるためにはやむを得ない理不尽の存在を認めるしかないのでしょうか。

山の外を見た白小小

高皓光は閉じられた古い世は終わり、開かれた新しい世が来ると白小小を慰めます。この時代は社会進化の可能性を純粋に信じられた時代であり、その流れに乗らなければ世界の弱肉強食の圧力に押しつぶされてしまった時代でもあります。黒山村の悲劇が運命で操られた結果というのなら、やはり関わった全員が運命の被害者なのでしょう。西暦1906年では同月令に選ばれた高皓光のみがこの流れを変える可能性を持っているようです。

3人が夜の山の中から出て、大地に広がる朝日を眺めるシーンはとても美しかったです。思わず胸が熱くなりました。運命に選ばれた人間である高皓光が、法術や屍者よりも誰でも使える科学技術のほうが不思議で世界を変える力があると白小小に語ってくれたことも素敵でした。技術の進歩が人間の格差を解決できると信じることは破壊と再生の起きる時代の希望であり、慰めでもあります。現実的に考えるとこの後も動乱の世は続きますが、せめて西暦2020年で高皓光の日記を読んでいる少年の住む場所ではここまでの悲劇が起きないことを祈りたいです。

運命の外とは

村の事件では手遅れになったとはいえ、高皓光は白小小を必死に救おうとし、因果に抗おうとしています。しかし高皓光の因果や運命に対する知識は不十分です。黒山村では姜明子の助けを期待していましたし、現在は悲劇の発端である西暦525年の事件が起こらなくなることをどこかで期待しています。しかし第2話や今回の姜明子の独白によればすでに起きた因果は変えられません。現在の人間を救うため明日以降に西暦525年の人間へ準備を頼むというのも、そもそもが可能な手段なのか不明です。こうした知識は姜明子なら持っているはずですが、現状はまともな情報交換が行われていません。

運命に選ばれた人間である高皓光が熱血な正義感を持っていること、それは確かな希望であるはずです。しかし黒山村の事件ではその熱さが空回りするばかりです。運命が導いた試練なのでしょうが、辛い展開が続きます。白小小を救おうとする行為の結末にも正直嫌な予感が拭えません。白小小はすでに三眼による即物的な開放の誘いに乗って惨劇を引き起こしてしまった自分を知っています。高皓光による本当の開放の誘いを受け入れてくれるでしょうか。ですが西暦1906年が多大な犠牲を支払ってでも進まなくてはならない時代なのだとすれば、どんな結果になろうと受け止めるしかないのかもしれません。