群青のマグメル ~情報収集と感想

『群青のマグメル』と第年秒先生を非公式に応援

群青のマグメル 第15話振り返り感想 ~ヨウは何を殺せるのか

第15話 闘争と逃走 20P

原題:在空想的追逐(直訳:空想での追跡)

前々回のエリンへの不意打ち、前回のエリンの死体を囮にしての背後からの攻防体での奇襲に引き続き、今回のヨウもなりふり構わぬ戦闘を繰り広げます。

ヨウが時刻を気にしてタイミングを図っていることやわざとエリンたちの注目を集めていることで何か作戦があることは示されつつも、今回のメインはあくまでも作戦の過程で必要となる戦闘の方ですね。この回ではヨウに敵対したエリンたちの様々な特徴を見ることが出来ます。個人的に特に興味深かったのは3頭身のエリンの首領個体の移動方法です。走るのに人間の手足に当たる部分は使わずに、枝のようになっている部分だけを接地させるというのはユニークかつ彼らの体型からすると理にかなっています。

今回はさすがのヨウも多勢に無勢であることや、エリンたちと正面から戦うことのできない一徒たちの存在を知られぬよう現実構造者と悟られてはいけないこともあって、かなり苦しい局面を強いられていきます。この状況で敵に手加減などできようがあるはずもなく、たとえ仲間の敵討ちに燃える相手であろうとも人間の言葉を話す相手であろうとも、どんな手を使ってでも殺すことになります。作品によっては主人公では殺害の描写をぼかしたりそもそも殺害に関与させないようにすることも多いですが、『群青のマグメル』では主人公であるヨウが敵の死体を隠蔽する場面まで挿入するという念の入りようで生身の相手を殺していることが強調されます。こうした描写で敵を「倒した」という逃げた表現の許されない世界観が生み出されています。

それでも読者にとってはヨウが殺しているのは所詮エリンであり人間でないということでそれほど残酷さを感じずに読むこともできるのですが、果たしてヨウはエリンが人間でないから殺せたのでしょうか?ヨウにとってエリンとは自分から隔絶した存在だと考えることはできるのでしょうか?

幼いころ人界では一人きりで生きていたヨウにとって一番初めのそして一番仲の良い友とはエリンであるクーです。ヨウはクーが激昂して人界の支配者である神名阿一族を殺そうとした際にもエミリアとゼロさえいなければクーを支持していた、つまり2人で人界の支配者を殺すことさえやぶさかでなかったとかなり思い切ったことを考えています。ヨウは人間とエリンの垣根を超えてクーと仲良くなったというよりも、生い立ちのゆえに最初から人間の立場にさえ属せていなかったために垣根なく仲良くなれたと捉えたほうが良いのでしょう。現在の拾人館という立場も一応は人間側ではあるのですが、事実上神名阿の支配下にある探検家などと違ってどの体制にも属してはいません。

ヨウはこれまでの話でも必要な場合ならば人間の殺害を決断することができました。今回エリンたちを殺すことができたのも、人間でなかったからというわけでなく、あくまで生き延びるために必要だったからという解釈をした方がヨウの人物像を把握する上では適当そうです。おそらくヨウにとって一番重要な基準は仲間か否か、つまり中国語での「家人」か否かといったところになるのではないでしょうか。

群青のマグメル 第14話振り返り感想 ~曲者の人間たち

第14話 宣戦布告 20P

原題:幻想之于空想(直訳:空想における幻想)

初心者構造者の4人の探検家への説明も終わり、今回から対エリン戦となります。一徒は自分の能力発動に成功するなり、まずその情報を利用して自分に構造能力の知識を与えたヨウたちと取引を行おうとするというかなりの曲者ぶりを発揮しますね。それに対してゼロは幻想構造の探知能力で一徒の構造を既に完全に把握していることをアピールして牽制を図ります。ゼロの長めの台詞もこの場面ではただの説明でなく、一徒に対して念入りに自分たちの優位性を誇示するためのものとして機能しています。また、一徒たちは再登場でのバトルが予定されていそうなので、ここで能力をしっかり読者に覚えて貰う必要もあるのでしょう。

この場面では即席のものとはいえ仲間内で一触即発の空気が生じてしまうのですが、ボルゲーネフのギャグが緊張感をいい意味でぶち壊してくれます。ここでは日本語版の能力名のアレンジやルビも上手く決まっており、ボルゲーネフのコミカルな絵と相乗効果を生んでいます。

こうして4人の探検家にとってダーナの繭編で必要なキャラ描写や用語説明は全て出揃い、拾人館との共闘が始まります。この共闘では一徒が比較的肉体に負担の少ない役回りを任されたこともあって、ややゲーム的感覚をもってエリン殺しに手応えを感じている節を見せます。彼の気分が高揚し未知のものへの探究心も高まる中、この時点では全くの未知の物体として拾因の因果限界が1ページ半も費やされて登場します。因果限界はこの時に謎であったばかりでなく、現段階においても拾因の思惑も含めてダーナの繭以上に謎の多い構造物です。

群青のマグメル 第13話振り返り感想 ~言葉を理解するエリンたち

第13話 目覚め 20P

原題:空想阴影(直訳:空想の陰影)

エミリアの口からダーナの繭もエリンも通常はマグメル奥地でしか見られないことが説明され、その両方が市街地を占拠している現在の異常さが確認されます。エミリアとクーの会話はここでも上手く成立せずにクーは高圧的な態度をとり続けますが、やたら高いところへ登りたがるなど妙に愛嬌のある部分は既に見せ始めています。

ヨウたちは構造力の説明を前回の基礎的な段階からある程度実践的な段階まで進めていますが、この部分の説明は翻訳の際に用語の混乱がありわかりにくくなってしまっています。「マグメルに愛された」人という言葉の初出は第7話で、そこでは中文版では「圣洲眷顾」之人という言葉が使われています。「眷顾」とは目をかける、ひいきにするという意味なので第7話での訳自体は妥当です。その部分は構造者を目覚めさせることを目的とした神名阿アミルが9人の探検家の資質について言及する場面であり、第30話の中文版では拾因がヨウと自分の構造者の才能は聖洲から授けられたものという意味のことを述べているので、「圣洲眷顾之人」とは構造者の資質がある人だということと捉えて良いでしょう。

問題は「圣洲馈赠」者という言葉まで「マグメルに愛された」者と訳してしまったことです。「圣洲馈赠者」はマグメルが贈り物をした者という意味で、常人を超えた身体能力を持つ人を指す際に使用された言葉なので、一見この言葉も「圣洲眷顾之人」と同じ内容であるように思えます。しかし正しく読めば強身薬で身体強化している人のことを指す言葉だとわかります。今回の話でも蛍火の身体強化に関するヨウからのコメントで「圣洲馈赠者」という言葉が使われて、既に蛍火が使用していた強身薬と比べると目覚めたての構造力による強化の上乗せは効果が微弱すぎてまだ能力に目覚めた実感が湧かないだろうという意味の説明をしています。しかしヨウが言った「マグメルに愛された」者という言葉と神名阿アミルが言った「マグメルに愛された」人という言葉が別の意味だと日本語版ではわからないので、意味が掴みづらくなってしまったのです。

ヨウたちがこうした会話をしている間にエリンに見つかってしまい、再び事態が切迫します。そしてエリンたちが次々と登場するのですが、これまでの化物然とした描写のされ方ではなく意志のあるキャラクターとしての描写のされ方をしています。特にわかりやすいのが3頭身の種族のエリン達です。この種族は最初に出た3人は体が小さく比較的頭も悪いようですが、今回ヨウに殺された個体は体が大きくややたどたどしいながらも彼らなりの言語的な思考もきちんと出来ています。さらにお頭である個体は体が相当に大きく、おそらく繭の中で見つけたのであろう人間の言語で書かれた本を読んでみるなどかなりの知的好奇心を持っていることがうかがえるほぼ人物描写と言っていい表現があります。エリンたちが一種の「人」であるという事実は『群青のマグメル』においてこれ以降も重要な要素となっていきます。

群青のマグメル 第12話振り返り感想 ~見つめる目

第12話 力の在処 20P

原題:空想世界的原著者(直訳:空想世界のエリン)

今回はそれまで読者にとっては人間に似ている分余計に意味不明の化物としか思えなかったエリンについての説明があり、まだわからないところは多いなりにも彼らは彼らの理屈や理由を持った生き物だということが理解できるようになります。

その象徴として基本的に読者目線のキャラのエミリアと初対面のエリンのクーとの間で、一応はコミュニケーションが成立します。最初はクーはエミリアの名を聞くこともなく(ちなみに第33話現在まででクーが個人名を呼んだことのある人間はヨウと拾因だけです)自分の言いたいことを一方的にまくしたてて、声をかけたついでとばかりにエミリアを殺そうとさえします。しかしエミリアが構造者について知っているのに気付いて興味を持ち、後から来た面倒な奴から離れるためにエミリアの手をとって同じ場所へ移動します。ここでかなり一方的ながらも2人の利害が一致した行動が取られるわけです。

その面倒な奴とは双生タイタンのことなのですが、先に述べたようにここではヨウたちを急襲した異形のエリン、つまり喰い現貯める者とミスリードさせています。頭から首周りのシルエットはそっくりなのですが、細身の喰い現貯める者とはよく見ると体型が異なり、何よりも2人のいた場所を見つめる眼光の処理が全く違っています。『群青のマグメル』は目の描き分けに力が入っていて、ミスリードの種明かしもまず目から始まることが多いです。

一方でゼロと一徒たちは前回に引き続き構造者の資質に関連した話をしています。そして極星社社員救出は名目でしかないという一徒たちの推測がゼロによって裏付けられ、真の目的は探検家の中から構造者に目覚める人物を出すことだったという結論が出されます。もちろん裏で手を引いたのは神名阿一族です。そしてダーナの繭が一種の構造物だという話題からその構造者であるマグメル大陸、それを宇宙から観測する人工衛星、とカメラが一気にズームアウトします。ここで注目したいのが人工衛星に神名阿一族の紋章であるあの目のマークが刻印されていることです。人工衛星の目であるレンズをアップにしたコマが挟まり、観測施設からヨウたちの様子を探る神名阿アミルの姿に場面が移ります。ここではまだ自身の目が描かれることはない神名阿アミルですが、様々な目のモチーフが重ねられるとともに人工衛星を自分の目として使うことで、何気ないような態度を取りながらも彼がこれ以上ないほど関心を注いでヨウたちを見つめていることが強調されます。左の掌に目のマークがしっかりと描写されていることも芸の細かいポイントです。

群青のマグメル 第11話振り返り感想 ~ゼロはただのクソガキなのか?

第11話 構造者の資質 20P

原題:空想世界的构造者(直訳:空想世界の構造者)

今回はこれまで断片的に出てきた構造者・構造の能力についての情報を整理し、詳しい説明をする回です。まず9人の探検家をなすすべもなく全滅させようとしていた3人のエリンをヨウが1人で簡単に倒してしまい、構造者の凄さを改めて読者に印象づけます。4Pと5Pの見開きは、4Pの最後のコマでジャンプしたヨウが、読者の5Pのページの上部へ移動する視線に合わせて5ページの右最下部から左上へ飛ぶという非常に考えられた表現となっています。電子書籍で1ページずつ見てしまうと伝わらない演出ですが、中国では紙媒体で連載していることもあり第年秒先生は見開き単位での演出を非常に上手く計算しています。そして最上部に達した視線が再び下に向かうとともに一徒たちを追い越し、その勢いのままエリンを倒すダイナミックなシーンへ続きます。倒した後は一転してヨウの素っ頓狂なあいさつとボルゲーネフのギャグ的な生存確認が挿入されて雰囲気が切り替わり、静的な構造能力の説明のシーンへと移ります。

構造能力の設定は複雑ですが、大雑把に言えば、構造力と呼ばれる力を操作して想像した物体を実体化させる能力であり現実にある物体なら訓練と才能次第とはなるが理論上何でも構造できる現実構造者と、訓練はほぼ必要なく現実を超えた物体を構造できるが特定の物体しか構造できない幻想構造者に2分されているということです。ヨウは現実構造物に幻想構造の効果を未完成とはいえ付加できますし、現実と幻想の完全な両立を目指していた拾因もおそらく同じことができたのでしょうが、これは通常ではありえない例外的なことと設定されています。

ここでの説明の中でゼロは何度も4人の探検家を子供扱いや未熟者扱いし、(生意気な)クソガキだと毒づかれてしまいます、たしかにゼロは童女の姿をしていますし、童女が大人ぶった口を利くことで逆に幼さが強調されるというのは第年秒先生の『殺し屋ドミノ』でもあったように定番の演出でもあります。しかし第10.5話の内容とこのタイミングで番外編を挿入した理由について考えると、ゼロは本当にただのクソガキなのだろうかという疑問が湧いてきてしまいます。さらにいえば中文版でのゼロのヨウへの呼び方である「少爷」とは「ご主人」よりも「お坊ちゃま」と訳すのが適当な言葉であり、ゼロはヨウのことを尊敬しているというよりもむしろ保護者として可愛がっていると解釈できるようにしているのではないかとさえ思えてきます。しかしもしゼロがただのクソガキでないとしても、第25話でのオーフィスのロマンやトトへの反応を見るに、少なくとも知識は現在のゼロ以外からの影響を受けていないと考えたほうが良さそうです。

 そして今回の最後の場面ではクーの初めての詳細な描写があります。クーは重要キャラだけあってなかなかもったいぶった登場の仕方をします。この前は味方の人間かと思われた人影が実はエリンだったが果たしてどうなる?という引きですね。この頃は絵柄が若干丸っこいこともあって、クーがなんだか幼い感じなのが今見ると面白いです。

群青のマグメル 第10.5話振り返り感想 ~今は何週目の宝探しゲームの最中か

第10.5話 ゼロの夢 20P

原題:去放松一下(直訳:少し緩くいく)

この話は日本では第10.5話として発表されましたが中国ではダーナの繭編の後に番外編として描かれたもので、番外編という分類にこそなっているのですが、実は初期の時系列へある程度話を進めから入れたくなったのであろう伏線をねじ込めるだけねじ込み直した非常に重要な回となっています。

まず中文版では第24話が初登場となるルシスと助手の女性が拾人館に接触を図り、早い段階で神名阿一族がヨウたちに関心を持っていたことが示されます。ルシスが責任者であるリア号が法の枠を超えてマグメルの物品を扱う商船だということも、背後に潜む神名阿一族の性質をそのまま表したものになっています。

そして伏線として一番象徴的なのがリア号の宝探しレースゲームとそれに続く鍵探しが完全に第33話の宝箱探しと対比構造となっている点です。

第33話の宝箱探しとは鍵だけが渡され、いい加減なヒントをもとにマグメルに隠された宝箱を探すというオーフィスがプロデュースした冒険です。

この話の鍵探しとは中身の入った宝箱が渡され、万全のサポートを受けてマグメルに隠された鍵を探すというルシスがプロデュースした冒険です。

この話では1番目の賞品としてまず宝箱が提示され2番目の賞品として鍵を出すことで不自然に感じにくくはしてありますが、秘境で宝箱でなく鍵のほうを探す冒険というのはこれ以外にはそうは聞きません。第年秒先生は第10.5話と第33話の違いを際だたせるためにあえてここまで明確に対比させたのでしょう。ではここで際立った違いとは何でしょうか?それはゼロの冒険に対する反応です。

この話のゼロは宝探しゲームという遊びそのものにはロマンを感じて心躍らせますが、鍵を探さないと宝は手に入らないとわかっても暇つぶしができたことに納得して特に不満はありません。最初から自分の幸せはヨウのそばにあると気付いていて、自分たちは冒険家と一線を引くものだと理解しています。

第33話のゼロは今まさに手に入ろうとしている宝箱の中身に心躍らせ、中身がロマンのない小切手だと知って落胆します。それでも思い直してヨウと共に過ごした冒険の日々が宝物だったのだとどうにか納得しようとします。

第33話のゼロはこの話のゼロが否定した冒険家そのものの行動をしており、考え方もこの話のゼロより幼いように思えます。さらに言えば第33話のゼロの経験だけが知識を除いた形で蓄積された結果、この話のゼロの考え方を持つようになったとさえ思えてきます。外見的な成長でいえば全く逆であるようにしか見えないのですが……。

この話の冒頭ではゼロが幾度最初から最後までやり直したのかもわからない冒険の果てでの遺言をつぶやいています。もちろん「宝探し」RPGの登場人物になりきって、という形式ではありますが。そして遺言を言い終わったゼロにヨウは問いかけるのです。「何週目?」と。

群青のマグメル 第33話感想 ~黒い瞳の彼は

第33話 新たな幕 20P

原題:决定过去的未来(直訳:過ぎ去りし未来での決定)

今回はきちんと読んでいればすぐにわかる仕掛けがいくつか組み込まれているのですが、もう少し核心に触れる描写があるまで詳しく言及するのは控えたほうが良さそうですね。そういうわけでできるだけ当たり障りのない部分だけの感想です。

冒頭の文章は中文版では

光阴荏苒 日月如梭

となっています。日本語版と比べると時が過ぎることより時が巡ることのニュアンスが強いです。これは石玉崑作の『三侠五義』という古典武侠小説の一節から引用したもので、いかにも以前武侠漫画を連載していた第年秒先生らしいチョイスです。古典からの引用という今までとは異なる雰囲気で幕を開けた今回は、話の舞台も今までとは異なっています。少年ではなく完全に青年で黒い瞳のヨウと呼ばれる人物と、童女ではなく年頃の少女で黒髪(?)のゼロと呼ばれる人物が出てきます。

2人はこの半年鍵を持って宝箱探しをしていました。この鍵は第8話と第10.5話で出てきた鍵と同一のものだと思われます。そして宝箱探しというのは少なくとも中文版ではオーフィスの隠し財産探しのことですね。まず人間の介在なしでマグメルに小切手入りの宝箱が出現したりはしませんし、わざわざマグメルに自分の財産を宝箱という形で隠して他人に探させるような人物がオーフィス以外に存在するとは考えづらいです。むしろ今回の話のためにオーフィスをこのような人物に設定したと見るべきでしょう。またこの鍵と同タイプの鍵をオーフィスの娘であるトトが第26話で持っていました。さらに日本語版で「嬢ちゃんの冒険の手掛かりもワシが掴んだのに!」となっている部分は、元の意味では「自分はあなたに大冒険をさせてやった恩人である」といった内容です。つまりこの冒険は宝箱の鍵から、いい加減なヒント、賞品の小切手に至るまで全てオーフィスがプロデュースしたものであるということです。

ただ日本語版だと説明の順序などがアレンジされていることはよくあるので、次号あたりにオーフィスが実は自分のプロデュースであったとネタばらしをする台詞が加わっているのかもしれません。その場合この文章はかなり恥ずかしい勇み足ですね。

探険から帰ってきたヨウとゼロを拾人館で待っていたのがトト・ビックトーとオーフィス・ビックトーの親子、そしてティトールです。ビックトー親子は第24~26話でも出番があった2人です。ティトールは現在のところ正体不明ですが、その謎の素性がいかにも重要な意味を持ちそうです。ティトールは同じナイスバディでも若々しい可愛らしさの目立つエミリアと違って、いかにも大人のお姉さんといった成熟した魅力があり、今までの『群青のマグメル』にはいないタイプの美人ですね。

一方でトトとゼロの会話でヨウが普通ならばとてもできないはずのゼロとの冒険と拾人館の仕事の両立をしていたことが明らかになります。ゼロもそれに対して一旦は疑問を持つのですが、すぐに両立可能な理由について心当たりが浮かんだようです。この理由というのも今回の舞台について考えるのに必要な要素になりそうです。