群青のマグメル ~情報収集と感想

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群青のマグメル第55話感想 ~天から差す光

第55話 超越者 20P

追記 原題:怪物对怪物 (直訳:怪物対怪物)

前回ヨウの感情の爆発とともに打ち倒されたと思われた神明阿アススでしたが、背景の一端が明らかになるとともに神明阿一族の当主としての意地を見せてくれ、彼もまた限界を越えたかたちでの真っ向勝負を迎えることになります。前回がヨウの感情のクライマックスであるなら今回はアススの意地のクライマックスといったところでしょう。

まず強さを求めるより作り物でもお話が好きだったというアススの幼少期が語られます。第45話の回想でも確かに本を読んでいたことを思い出すとともに、彼なりに感情があることが改めて示されちょっとした人間味を感じてしまいます。まさに漫画を読んでいる自分からすると、幻想のお話に夢中になる姿はなおさらに親近感が湧きやすいです。月を眺めながら同じく手の届かない幻想に思いを馳せるアススを満たした感動とは、私たちにも酷く身近な心の動きのはずです。しかし作り話には感動できても現実に対してはそうでもないというそれに続く独白には、普段どっぷりと幻想にばかり目を向けている自覚のあるほどに、絶妙に後ろ暗い部分での同調を刺激されてしまいます。他人の犬を蹴り飛ばしておいて平然としている様子も、これまで通りの常人離れした感性の露呈そのものではあるのですが、他人の感性とのちょっとした違いが無闇に深刻なものに感じられ悩んでしまうという経験自体は普遍的なものであり、一度共感の取っ掛かりができてしまうとこうした部分にも目を背けたい種類の感情だからこそわかるところがあるのに気付かされてしまいます。

それゆえに際立つのが全く感性の違うリリとの出会いでアススに生まれた心の動きです。後にアススの妻になるリリは偏屈なよそ者である彼にもひたすらに明るく接してコミュニケーションを試みてくれます。力では勝てない相手に恥をかかせて対抗すると宣言する開けっ広げさも、村から出たことのないという素朴さも、すげない言葉に自分から譲歩を示す優しさも、いずれもアススの性質とは正反対のものです。2人の座る遮蔽物のない草原は単調な画面になりかねないロケーションですが近景・中景・遠景の構成のしっかりなされたレイアウトにより場面のスケール感とドラマチックさが見事に盛り立てられています。そして草原での踊りの一枚絵の叙情性と斜め上から捉えたリリの笑顔の美しさは、口では「意味不明だぞ」とこぼしながら言葉に出来ず自覚も出来ないままにアススの中で湧き上がった何かを、絵の力でこれ以上ないほどに見るものに伝えてきます。目の前で現実の女性として踊るリリに降り注ぐ雲越しの太陽の光、それは幼い頃に手の届かない幻想を託した雲間から覗く月の光と同じ感動をアススに与えたのではないでしょうか。

戦いの中での敵の過去のエピソードの開示はともすればバトルの勢いを削ぐ要素になりかねないものです。リリとトトの語るアススは弱いという言葉も一面的には勘違いから発せられたものながら、強さが脆さを生んでいるような彼の本質を逆説的についていると感じます。ですが、ここではそれらを打ち倒されかけた際の一瞬の走馬灯として描写し、むしろそこから持ち直した気概こそを際立たせることで、対立の熱量がより高い次元に導かれていると確信できます。人類を超越した者同士の、善もなく悪もないからこその純粋で赤裸々な暴力のぶつかり合いにはただ息を呑むばかりです。

まず巨大な手が出てその後巨大な本体が全容を現すというヨウの攻撃を、より大きい規模でアススがやり返すことには、こんな陰惨な状況であっても素直に燃えてくるものがあります。アススが純粋な現実構造者である以上、巨大な手を構造した時点でそれに見合うサイズの生物の存在は意識してしかるべきだったのでしょうが、オーグゴーンの構造には正直言って驚かされました。無力化を装ってからの予想外の方向からの攻撃といい、アススがヨウたちと同じ手段を取りながらもスペックとしてその上を行くという描写は徹底されている印象です。もしかしたらヨウはこの場ではアススを倒しきれないのかもしれません。アススがリリとトトを重ねて見ているのが再確認されたこともあり、原皇の端末にされているトトと再会し何らかの決着をつけるまではアススが死なない可能性が出てきたように思います。その場合は、今回アススの命を削ったことが強調され命がもう十日も持たなくなったと断言されたのは、ここでのヨウの死闘を無駄骨とせず曲がりなりにも意義があったことを示すためだということになるのでしょう。

一方、この状態の中で腕が立つとはいえ人間の範疇でしかない十八獄中隊の隊員たちが逃亡することもなくアススの傍に留まっている様子には奇妙に感慨深くなるものがあります。前回までは読者への解説のための応援にメタ的なおかしさを感じるところが強かったのですが、アススの背景の一端を知った今となっては上祖様を懸命に信じてテンションの高い応援を続ける彼らの様子にこちらテンションまで引き上げられる部分があります。一番良く喋ってる鯰髭の隊員が、12P下段のコマで万歳をしているのに位置関係から気付いたりすると、ますます変な親しみが湧いてしまいます。

また神明阿一族が彼らなりの信念を示し『群青のマグメル』における正しさの相対性が再確認されたことは、常人からの逸脱を加速させるヨウにとってはむしろある種の許しといえるのかもしれません。この戦いが終わってヨウに悔いが残るとしても、向き合う必要があるのは守れなかったゼロに対してのみであり、信じるものがあるとはいえども自分たちを傷つけた神明阿の死者に向けるべきものは何も無いと考えたとしても、それはそれでヨウの正しさと呼べるはずです。それがいわゆる社会正義から外れたものだとしても、これからもこれまでのようにヨウが社会の外れで生きていくことを『群青のマグメル』の世界は許容しうるはずなのです。

後々に繋がる伏線となりそうな部分では、やはり若きアススの容姿が気になります。彼らは神明阿(中文版では未神明阿)といういかにも漢字文化圏的な一族の名を持ちながらも、外見としては極めてコーカソイド的な特徴を持っています。またアススの名は中文版では亚伯撒斯であり、聖書の登場人物であるアベル(亚伯)やアブラハム(亚伯拉罕)の中文における表記と共通性を感じます。最初に神明阿一族と名乗った神明阿アミルの黒髪ですっきりとした顔立ちと神明阿という表記によりアジア的な第一印象が読者に与えられてはいましたが、実は神明阿一族の源流とはユーラシアの西方にこそあるのではないでしょうか。コールドスリープ以前の神明阿アススは、ユーラシア西方のどこからか世界を巡る旅に出て、途上の欧州でリリと出会い、やがて東方の漢字文化圏に一族を率いて根を下ろすことになるという人生を送ったのかもしれません。また以前にも言及したことですが、神明阿アススや他の当主たちに共通する顔の特徴と、神明阿アミルの顔の特徴は全く異なっています。そして相当な実力者でありながらも未だ素性のはっきりしないルシスこそが当主たちと同じ顔の特徴を持っているのです。さらに言えば彼の構造の紋章は天使にも似た何かが羽を広げた図柄です。アススの構造の紋章が十字架であり、彼と子を成したリリの服の胸元にも羽を広げた天使らしき模様があることを考えると意図された宿命を感じざるを得ません。

 

なお、前回の「なんで理解できないかなぁ?」は日本語版の口調につられてアススの妻の台詞と考えてしまいましたが、その上のコマが今回の出会いの場面らしいことを考えると、「後悔? ~ 悲哀… なぜ理解できぬ? それは儂が人間性を持たぬからなのか…」という自問自答の一部だと考えたほうが適当であるように思えます。この場合アススの感情の無理解の指摘などリリは行っていなかったことになります。さらにアススがリリのそばにいることで現実の感情を理解したいという欲求をより自発的に持つようになった印象と、理解できなかった自分への落胆をより自ら深めた印象が強くなります。やはりアススとリリの断絶はアススの幻想の中にしか存在せず、リリに対して自覚できない思いがあるからこそ理解したいあまりに間違った手段をとってしまったのではないでしょうか。