群青のマグメル ~情報収集と感想

『群青のマグメル』と第年秒先生を非公式に応援

『屍者の13月』第7話感想 ~西暦525年と西暦1906年の経緯

第7話 千年の借り 24P

2020/08/13 三眼と白小小の会話に関する内容を修正

shonenjumpplus.com

西暦525年に起きた屍疫事件と西暦1906年に起きた生贄事件の顛末について、法屍者である三眼が語りました。正直に言って、なぜ作中の皆が三眼の語る内容を素直に受け取っているのかよくわかりませんが、話の流れからしてとりあえず真実と思っておいたほうがいいのでしょう。

内容が込み入っていることもあって感想が長くなってしまいました。

生贄にされた両親

三眼が語った内容を受けて白小小が両親を回想するシーンは素晴らしいです。第年秒先生はモノクロ漫画でも叙情的な演出がうまいですし、それにカラー漫画の情感が加わり、相乗効果は抜群です。家族を村の犠牲にするように迫られた女性の悲痛さが真に迫って伝わってきました。今話の最後で白小小は三眼に魂を売る選択をしてしまいましたが、心情的には確かに仕方がないと思ってしまう部分があります。

屍疫事件の経緯

しかし白小小の決断の背景となる事件の推移は相当にこんがらがっています。西暦525年に起きた事件と西暦1906年に起きた事件がそれぞれ複雑な上に、2つの事件が絡み合ってさえいます。

まず前回から続く西暦525年の屍疫事件の説明では、白大の死体と丹を利用して、三眼が代わりに敵討ち行ったという顛末が明かされました。法屍者が村のそばで活動していたことをろくに把握していなかったらしい村人からすれば、白大が法屍者となって蘇り、復讐で200人余りの村人のうちの97人を殺害した、といった成り行きに思えたのではないでしょうか。白大は人体実験の失敗どころか故意の大量殺人の汚名を着せられてもおかしくない状況です。しかし隣村に嫁いだ白大の妹によって白氏の名は存続しましたし、子孫は黒山村に移住してさえいます。屍者が現れた恐怖で生贄探しが始まるまでは白小小一家も村人と家族のように暮らしていたそうですし、復讐の連鎖は一旦は途絶えたはずでした。

法屍者と村人の約束

三眼が西暦1906年の生贄事件を説明するところによれば、蘇ってから漫然と人間を食っていたら、人間の方から定期的に生贄を捧げる代わりに自分たちは助けてくれるよう交渉を持ちかけてきたそうです。しかし三眼は高皓光たちが生贄の白小小を救出しようとした時に怒り、白小小に高皓光たちを連れて戻ってこなければ村人全員の命で償ってもらうと告げています。また第6話で村長は三眼から逃れられた人間(中文版準拠)はいないと語っています。三眼にとって屍者が人間を食うのは自然の摂理であり当然のことなのです。

この回の説明からは三眼が相当な数の生贄を捧げられたことがわかりますが、黒山村で生贄にされたのはまだ白小小一家のみです。生贄を捧げた「近隣の村の連中」は黒山村だけでなく複数の村にまたがっています(中文版では第6話で3つの村と明記)。

都合のいい口実を見つけ、自分たちの安全を図りがてら邪魔者を排除するという卑怯な手で生贄を差し出してきたのは黒山村の住人だけではないのです。これを言った三眼も白小小一家が白大の子孫だったことをこの場に来るまで知らなかったので、村の事情を完全に把握しているわけではないようです。

なお第3話で

「恨みは必ず晴らしてやる なぜ人を喰らうのが悪い?」

「人だって命を喰らうじゃないか」

「屍者だけが悪者なんてひどい話だ」

(中文版だと2つ目のセリフは「人也会吃人呢」人だって人を食うぞ。)

と言っていたため、日本語版の

「白小小 お前の両親がオレに殺されたのは不幸な事故だ」

という今回のセリフを無責任発言と勘違いしてしまいました。しかし中文版をよく確認したところ、

「而你爹娘死于咱手,便是后果了,」

《日月同错》第七回 千年债偿 上-在线漫画-腾讯动漫官方网站

(そしてお前の両親がオレの手で死んだのは、まさに不幸な余波だ。)

というセリフであり、あくまで運命の因果について言及していただけでした。また、自分のことを棚に上げて村人だけを責めているように読めかねない日本語版の

「祖先の名誉を回復したいか? 死んだ両親の敵を取りたいか? 今まで受けた理不尽の仕返しをしたくないか?」

も、中文版では

「想要消灭咱为爹娘报仇吗? 想要为自己祖先所受的不公, 为自己家这一世受的不公报仇吗?」

《日月同错》第七回 千年债偿 上-在线漫画-腾讯动漫官方网站

(両親の仇を討つためオレを消滅させたいか? 自分の祖先が受けた不公平や、 自分の家がこの世で受けた不公平の復讐をしたいか?)

です。三眼は第6話で語っていたように自称以外の自分の本名を忘れてしまい、人間だった時の記憶も残っていないようですが、自分が両親の仇として白小小から恨まれていることを理解できるくらいの人格は保っています。そして穏やかに長生きしたい三眼にとって、再生を助けた白大は重要な恩人です。白大から送られた生を白大の子孫のために使うのは「借りは必ず返す」という彼のモットーに沿った決断なのでしょう。

一方、第5話で黒山村の村長は三眼に生贄を捧げて村を外敵から守っていると自己正当化しており、村長自ら交渉したか、または交渉を知っていたことがうかがえます。こうした交渉の内容が他の村人たちにどの程度明かされていたのかが気になります。他の村でも交渉や村人同士の合意形成はどのように行われたのでしょうか。

戦乱の世

このような人食いの化け物は実在しませんが、戦乱の世で強力な武力を持つ犯罪者集団が村や町を支配し、擦り寄りに成功した者と犠牲になった者に分かれてしまうというのは現実でも多々あることです。清朝末も動乱期に当たります。おそらくこのエピソードから読み取れることは黒山村の住人が特別邪悪ということではなく、人間は動乱期にはしばしば醜くなってしまうものということであるはずです。

同じく戦乱の世である南北朝の白大の事件も大変痛ましいものですが、語る三眼自身が「よくある人間同士のいざこざ」で片付けています。実際にあの時代ならはずみの殺人も食人もよくありそうな事件です。それに対する報復だって規模はともかくありふれていたでしょう。

時代が変われば人間の価値観も変わるものですが、時代劇は作中の主人公たちと読者の目線が乖離しないように工夫する場合が多いです。しかしこのエピソードを読むにあたって、読者は主人公である高皓光と目線を合わせようとするよりも、西暦2020年で高皓光の日記を読んでいる少年の側に目線を置いたほうがいいのかもしれません。あくまで西暦525年の事件も西暦1906年の事件も所詮は過去の出来事と突き放して他人事として読むべきなのでしょうか。それを強調するように今回の扉絵には日記を読みながら慄いている西暦2020年の少年が描かれています。

村の理論

西暦1906年の村人は伝承と真実が異なることに驚き、先祖が嘘をついたとショックを受けています。しかし当時の黒山村はほとんど読み書きができない白大が努力して薬師にならねばならなかった程に教育から縁遠い地域でした。文字による正確な記録の引き継ぎは難しいはずです。むしろこれほど伝承の原型が残っていることが不思議です。ただし伝承の歪曲度に関わらず、それを口実に白小小一家を迫害したことは高皓光の言うとおりに卑怯な行為です。村人が動揺しているのは伝承というあやふやなものにすがって自分を納得させようとした反動ゆえなのでしょうか。この反動は白小小から最悪のかたちで表出してしまいました。

白小小は自分の両親を見殺しにさせられることさえ村の理論で納得しようとしてきた女性です。白小小が生贄の役目から逃げ帰ったと村長に勘違いされ、畜生と罵られて殴られた時、高皓光は村長たち村人を殴り、さらに対抗して家畜と罵り返しました。屍者に囲われて生きる姿が家畜そのものということです。しかし村長から畜生と罵られた白小小は実際には役目を放棄しておらず、むしろ屍者の命令に従って高皓光たちを連行していました。その際には背後から殴りかかる、おせっかいな性格を見越して自分の命を人質に脅す、などの様々な手段を採っています。高皓光は意識していないでしょうが村の理論を罵ることはそのまま白小小を罵ることにもなっていたのです。
そんな白小小が伝承の誤りを知ったことで村の理論の誤りに直面し、白家が背負ってきた「借り」を返してもらうことを決意してしまいます。両親の敵討ちだけならさておき、白家と村人という千年以上前の対立をそのまま今に持ち込もうとする三眼の思惑に乗ってしまうことは大変危険です。白家の復讐を村人全員に押し付けることになりかねないからです。

人食いのおべんちゃら

今回のエピソードは1人の屍者によって西暦525年の屍疫事件と西暦1906年の生贄事件が引き起こされ、たまたま屍疫事件がモチーフになった童謡が伝承され、たまたま童謡が迫害の口実に利用され、たまたま白家最後の生き残りである白小小が生贄にされた時に三眼が事態に気付く、という偶然が重なったものです。この偶然の重なりが天命ということなのでしょう。しかし現在の白小小の背中を押してしまったのは天命などでなく三眼です。三眼は525年でも1906年でも事件の直接の元凶でありながら、事件を収める気はまるでなく、むしろモットーを遵守するあまりに自分を含めて犠牲を拡大しようとしています。両親を生贄にされた白小小が村人への憎悪を燃やすのは当然ですが、高皓光までが元凶である三眼そっちのけで村人と対立しかかっていた点が気がかりです。