群青のマグメル ~情報収集と感想

『群青のマグメル』と第年秒先生を非公式に応援

群青のマグメル第55話感想 ~天から差す光

第55話 超越者 20P

追記 原題:怪物对怪物 (直訳:怪物対怪物)

前回ヨウの感情の爆発とともに打ち倒されたと思われた神明阿アススでしたが、背景の一端が明らかになるとともに神明阿一族の当主としての意地を見せてくれ、彼もまた限界を越えたかたちでの真っ向勝負を迎えることになります。前回がヨウの感情のクライマックスであるなら今回はアススの意地のクライマックスといったところでしょう。

まず強さを求めるより作り物でもお話が好きだったというアススの幼少期が語られます。第45話の回想でも確かに本を読んでいたことを思い出すとともに、彼なりに感情があることが改めて示されちょっとした人間味を感じてしまいます。まさに漫画を読んでいる自分からすると、幻想のお話に夢中になる姿はなおさらに親近感が湧きやすいです。月を眺めながら同じく手の届かない幻想に思いを馳せるアススを満たした感動とは、私たちにも酷く身近な心の動きのはずです。しかし作り話には感動できても現実に対してはそうでもないというそれに続く独白には、普段どっぷりと幻想にばかり目を向けている自覚のあるほどに、絶妙に後ろ暗い部分での同調を刺激されてしまいます。他人の犬を蹴り飛ばしておいて平然としている様子も、これまで通りの常人離れした感性の露呈そのものではあるのですが、他人の感性とのちょっとした違いが無闇に深刻なものに感じられ悩んでしまうという経験自体は普遍的なものであり、一度共感の取っ掛かりができてしまうとこうした部分にも目を背けたい種類の感情だからこそわかるところがあるのに気付かされてしまいます。

それゆえに際立つのが全く感性の違うリリとの出会いでアススに生まれた心の動きです。後にアススの妻になるリリは偏屈なよそ者である彼にもひたすらに明るく接してコミュニケーションを試みてくれます。力では勝てない相手に恥をかかせて対抗すると宣言する開けっ広げさも、村から出たことのないという素朴さも、すげない言葉に自分から譲歩を示す優しさも、いずれもアススの性質とは正反対のものです。2人の座る遮蔽物のない草原は単調な画面になりかねないロケーションですが近景・中景・遠景の構成のしっかりなされたレイアウトにより場面のスケール感とドラマチックさが見事に盛り立てられています。そして草原での踊りの一枚絵の叙情性と斜め上から捉えたリリの笑顔の美しさは、口では「意味不明だぞ」とこぼしながら言葉に出来ず自覚も出来ないままにアススの中で湧き上がった何かを、絵の力でこれ以上ないほどに見るものに伝えてきます。目の前で現実の女性として踊るリリに降り注ぐ雲越しの太陽の光、それは幼い頃に手の届かない幻想を託した雲間から覗く月の光と同じ感動をアススに与えたのではないでしょうか。

戦いの中での敵の過去のエピソードの開示はともすればバトルの勢いを削ぐ要素になりかねないものです。リリとトトの語るアススは弱いという言葉も一面的には勘違いから発せられたものながら、強さが脆さを生んでいるような彼の本質を逆説的についていると感じます。ですが、ここではそれらを打ち倒されかけた際の一瞬の走馬灯として描写し、むしろそこから持ち直した気概こそを際立たせることで、対立の熱量がより高い次元に導かれていると確信できます。人類を超越した者同士の、善もなく悪もないからこその純粋で赤裸々な暴力のぶつかり合いにはただ息を呑むばかりです。

まず巨大な手が出てその後巨大な本体が全容を現すというヨウの攻撃を、より大きい規模でアススがやり返すことには、こんな陰惨な状況であっても素直に燃えてくるものがあります。アススが純粋な現実構造者である以上、巨大な手を構造した時点でそれに見合うサイズの生物の存在は意識してしかるべきだったのでしょうが、オーグゴーンの構造には正直言って驚かされました。無力化を装ってからの予想外の方向からの攻撃といい、アススがヨウたちと同じ手段を取りながらもスペックとしてその上を行くという描写は徹底されている印象です。もしかしたらヨウはこの場ではアススを倒しきれないのかもしれません。アススがリリとトトを重ねて見ているのが再確認されたこともあり、原皇の端末にされているトトと再会し何らかの決着をつけるまではアススが死なない可能性が出てきたように思います。その場合は、今回アススの命を削ったことが強調され命がもう十日も持たなくなったと断言されたのは、ここでのヨウの死闘を無駄骨とせず曲がりなりにも意義があったことを示すためだということになるのでしょう。

一方、この状態の中で腕が立つとはいえ人間の範疇でしかない十八獄中隊の隊員たちが逃亡することもなくアススの傍に留まっている様子には奇妙に感慨深くなるものがあります。前回までは読者への解説のための応援にメタ的なおかしさを感じるところが強かったのですが、アススの背景の一端を知った今となっては上祖様を懸命に信じてテンションの高い応援を続ける彼らの様子にこちらテンションまで引き上げられる部分があります。一番良く喋ってる鯰髭の隊員が、12P下段のコマで万歳をしているのに位置関係から気付いたりすると、ますます変な親しみが湧いてしまいます。

また神明阿一族が彼らなりの信念を示し『群青のマグメル』における正しさの相対性が再確認されたことは、常人からの逸脱を加速させるヨウにとってはむしろある種の許しといえるのかもしれません。この戦いが終わってヨウに悔いが残るとしても、向き合う必要があるのは守れなかったゼロに対してのみであり、信じるものがあるとはいえども自分たちを傷つけた神明阿の死者に向けるべきものは何も無いと考えたとしても、それはそれでヨウの正しさと呼べるはずです。それがいわゆる社会正義から外れたものだとしても、これからもこれまでのようにヨウが社会の外れで生きていくことを『群青のマグメル』の世界は許容しうるはずなのです。

後々に繋がる伏線となりそうな部分では、やはり若きアススの容姿が気になります。彼らは神明阿(中文版では未神明阿)といういかにも漢字文化圏的な一族の名を持ちながらも、外見としては極めてコーカソイド的な特徴を持っています。またアススの名は中文版では亚伯撒斯であり、聖書の登場人物であるアベル(亚伯)やアブラハム(亚伯拉罕)の中文における表記と共通性を感じます。最初に神明阿一族と名乗った神明阿アミルの黒髪ですっきりとした顔立ちと神明阿という表記によりアジア的な第一印象が読者に与えられてはいましたが、実は神明阿一族の源流とはユーラシアの西方にこそあるのではないでしょうか。コールドスリープ以前の神明阿アススは、ユーラシア西方のどこからか世界を巡る旅に出て、途上の欧州でリリと出会い、やがて東方の漢字文化圏に一族を率いて根を下ろすことになるという人生を送ったのかもしれません。また以前にも言及したことですが、神明阿アススや他の当主たちに共通する顔の特徴と、神明阿アミルの顔の特徴は全く異なっています。そして相当な実力者でありながらも未だ素性のはっきりしないルシスこそが当主たちと同じ顔の特徴を持っているのです。さらに言えば彼の構造の紋章は天使にも似た何かが羽を広げた図柄です。アススの構造の紋章が十字架であり、彼と子を成したリリの服の胸元にも羽を広げた天使らしき模様があることを考えると意図された宿命を感じざるを得ません。

 

なお、前回の「なんで理解できないかなぁ?」は日本語版の口調につられてアススの妻の台詞と考えてしまいましたが、その上のコマが今回の出会いの場面らしいことを考えると、「後悔? ~ 悲哀… なぜ理解できぬ? それは儂が人間性を持たぬからなのか…」という自問自答の一部だと考えたほうが適当であるように思えます。この場合アススの感情の無理解の指摘などリリは行っていなかったことになります。さらにアススがリリのそばにいることで現実の感情を理解したいという欲求をより自発的に持つようになった印象と、理解できなかった自分への落胆をより自ら深めた印象が強くなります。やはりアススとリリの断絶はアススの幻想の中にしか存在せず、リリに対して自覚できない思いがあるからこそ理解したいあまりに間違った手段をとってしまったのではないでしょうか。

群青のマグメル第54話感想 ~人間と感情

第54話 冷静には 20P

追記 原題:巨人的怒火 (直訳:巨人の怒火)

途中で偽りの決着まで挟み長らく続いた対神明阿アスス戦ですが、おそらく今回こそが本当のクライマックスでしょう。とうとうヨウとアススの激闘に決着がついたようであり、アススの抱える欠落が逆説的に示す人間性の理解という主題にも一定の落とし所が見えてきました。

まず戦闘においてヨウは神明阿の配下の放つ電撃を海水の飛沫で分散させつつ相手に返しつつ更に風の刃など物ともしない強さを発揮し、ごく当たり前のこととして2人を惨殺します。手骨構造への対応でも努めて感情を抑えて冷静に効率的に対処している様子が印象づけられ、明らかに禍々しく異常な事態が進行しているはずなのにそのことよりも繰り出される攻防の手数の多さの方に意識が向いていくようになっています。アススが最終攻撃のために構造した水球でも、人物たちとの位置関係の把握しやすいレイアウトにより自然に伝わる巨大感、内部のうごめく様子と多数の十字架の紋様が醸し出す不気味さなどの静謐さの強調された重々しい演出により、迫力はありながらもむしろテンションは押さえつけられ続けます。こうしたフラストレーションを一気に開放するのが17Pでのヨウの感情の激しい噴出と、続く見開きでの一閃のダイナミックさです。背後で巨大手装を構造し、自身の巨変を解いて手装に追い抜かせてウォーターカッターを撃破させ、残骸をくぐり抜けてから再び自身を巨変しアススを攻撃するという戦術も、能力を活用しきっています。流石のアススにも致死的な傷を与えられたと期待していい展開のはずです。

ただ、状況解決の目処がたつ程に意識せざるを得なくなるのが、どうしても円満には落ち着きようがない現状の結末の行方です。身体の一部を欠損するほどの大怪我を負ったこと、かけがえのない家族であるゼロを失ったこと、いずれもヨウという人間のかたちを根本から壊す傷となりかねないものです。今回の理性のうちに行った敵の殺害も理性を脱ぎ捨てて本能的な情動に身を委ねた攻撃も、ヨウにとっては人間と見なせない神明阿一族を始末するためとはいえ、ヨウ自身をますます人間の枠の外に追いやってしまうのではないかと不安になるところがあります。

感情を理解できないがゆえに人間を超越できた神明阿アススと、自制しきれないほどに溢れる感情を内に秘めるがゆえに人間離れするヨウ、2人は対照的であると同時にいびつに似通ってもいます。

後悔、絶望、憤怒、悲哀、そうした愛する人が亡くなった時に湧き上がるべき情動とはかつてのアススが妻の殺害時に抱くことを期待し、しかし抱くことのできなかった感情そのものです。己の方が殺害される側に追いやられつつあるさなか、相手のヨウの姿にそうした感情をアススが見出そうとしているのは、まさに運命の皮肉というほかないでしょう。あるいはそれらの思いに言葉の上だけでも考え至り、自分の欠落を自覚しながら心残りと言ってもいい何かを滲ませたのは、彼自身が死を突きつけられることで暗い情動を自覚しつつあるが故なのでしょうか。またこの心残りは、直接的には(おそらく感情の)無理解を指摘する女性の発言と繋がっているもののように演出されています。この女性は下側を一本結びした髪型からアススの妻でまず間違いないはずです。人間性を持たないと自認するアススにとってさえ、自身の感情の無理解によりもたらされたと考えているらしい妻との隔たりには、多少なりとも感じるところがあるようです。もしかしたらそれが妻を殺害した直接的なきっかけであるのかもしれません。ただアススが隔たりを意識していたとしても、アススを自分の命よりも大切だと語ったという妻にとっては、果たして隔たりは存在していたのでしょうか。妻がもし多少の違いなど自分が包み込めるものと感じていたのなら、実はそんなもの意識していなかったのかもしれません。彼女も自らの生死には関わらずに、アススがどこに行ってもそばにいるつもりだったと推察するのならなおさらです。だとしたらアススの欠落を指摘する言葉の真意とは、そしてアススに殺害される際に抱いた感情とはどんなものだったのでしょうか?また、動く心などないと自認しつつも妻に対して揺れる何かが確かに存在するアススは、自らの死を前にして何を理解するのでしょうか?あるいは何も理解できないのでしょうか?いずれにせよ人間としての神明阿アススについての結論がこの先で出されるはずです。

人間性、即ち人間と感情について焦点を置いたこのエピソードがどう決着するのかが、今後の『群青のマグメル』の方向性を決定する上で重要な部分になるのは間違いありません。今はただ次回の更新日である2月20日を待つのみです。

ハイッ!ホイッ!!ホワァタァ!!!の感想 ~あなたをずっと見ている

2018/1/10 文章を修正

特別読切の『ハイッ! ホイッ!! ホワァタァ!!! ~巡る因果の狂騒曲~』は第年秒先生が以前に中国での発表を予定して描いた作品『喝!哈!啊哒!』を日本語訳したものとなります。中国で一般的な漫画の形式に則っているので、左から右に読むカラー漫画となっています。2014年の9月に第年秒先生がこの漫画の中国語版を微博で発表した時のコメントによればその更に数年前に依頼されて執筆していた作品だそうですが、どうやら何らかの行き違いがあり中国では出版社の関わる媒体では未掲載となったようです。また同じくコメントによると『喝!哈!啊哒!』は『5秒童話』の源流となった作品のひとつということで、そうした視点から読んでも興味深いです。絵柄が今よりもややリアル系でスタイリッシュな印象が強い点も新鮮です。

掛け声のみで構成されたタイトルの印象通りの楽しい読切で、ラブ&コメディですがラブコメの甘酸っぱさよりもコント的なやりとりの面白さに重点が置かれています。いわゆる自殺コントの亜種で、自殺しようとしていた人物がやがてそれどころではなくなるという展開まで含めてお約束的です。最初から最後までほぼ主人公の正(ジョン)と謎の少女の会話のみで構成され、回想以外での場面転換が存在しないという割り切った作りにも関わらず、次々に小出しにされる新情報と画面構成の巧みさで18Pを走り抜けるように読み切ることができます。短い作品だけに初っ端から第年秒先生お得意の性悪美少女と振り回される気弱な少年という明確に立ったキャラが打ち出されていて、次のページに進むのにワクワクできます。

ギャグ要素は7P中段のネタ3連発のように日常あるあるからの思わぬズレが中心的な題材なのでしょうが、日本人の自分から見るとその日常あるある自体に文化の違いによるズレがあってなんだか妙におかしいです。特にハトを落とそうとして豚小屋に落下、のエピソードなんて現代日本ではまずありえない上にどことなく養豚の身近な中国の郷土性が感じられて、これもひとつの異文化理解といった気分になります。高層ビルが立ち並ぶような街でも少し外れに行けば素朴な部分が残されているのが現在の中国の風景といったところなのでしょうか。

全体の構成としては、後半に謎の少女がストーカー行為を告白するという怒涛の伏線回収があり、最後の1Pのオチで全てが腑に落ちるという点が見事です。

ストーカー少女の正体とは、主人公がかつて走り小便をした時にそれを目撃されてしまった少女だったのです。小さなコマですが7Pの中段左側に目撃した少女が首からカメラを下げているのがしっかり描かれています。それを使って当時はツインテールでなくセミロングヘアの少女が、ズボンが下りたままで股間を手で隠す涙目の主人公も写るように自撮りしたのがラストの写真です。光の加減か少女の髪色はやや異なるように見えますが、髪型や服装やリュックなどの持ち物といった主人公と少女の特徴は7Pの回想と写真とで完全に一致しています。ただ初めに7Pを読んだ時点では少女の正体に気が付かないようにする必要があるとはいえ、髪色が違って見えるせいで漫画の記号として同一人物とわかりにくいことは少々不親切な気がします。とはいえシーンごとの光の違いによる細かい色のニュアンスの変化が表現された作品ですし、水中かつ夕日を浴びていることで写真の色が本来の色とは違って見えるかもしれないことを考えると当時は黒髪で今の茶髪は染めているという可能性も一応はあります。また7Pの主人公の台詞の「めっちゃ見られた…」とラスト2P分で少女が連呼する「見せてもらった」「魅せ続けてね」「みせてくれたのは」などの「見る」というキーワードに注目すればストーカー少女の正体は7Pの少女の他に考えられないでしょう。

7P中段でのただのギャグに見せかけられた3つのネタは、1つはすべての発端で2つはその結果のストーカー行為を受けた結果だと読み返せば意味が持たせてあることがわかるようになっており、要素の散りばめ方がスマートです。ちなみに日本語版では11Pで「年に1度」となっているためこの3つしか不幸が起きていない印象になっていますが、中文版でこの部分は「一年又一年」「一年また一年と」でこの場合は何年もずっとという意味なので、主人公は長年さぞや大量の「不幸」に遭遇させ続けられていることでしょう。この3つはあくまでも例ですね。一年に一度しか会いにこれないとか手出しできないとかのストーリー上の仕掛けがあるわけでもないです。

さらに細かい日中版の違いを言うと、10Pの「彼にフラれたの」と14Pの「どうせ… フラれるんだから――」は「我可是,被男朋友甩的!」「反正…… 我也被甩了」なので個人的には後者も「フラれた」にするかもしくは「フラれてる」にしたほうがしっくり来ます。つまり橋の上での別の女とのデートを目撃してフラれたと感じつつもそれに直面しないために飛び込みを行ったのが日本語版で、デートを目撃してフラれたの承知の上でストーカー行為込みでの愛の告白をして、告白にキレられたことでフラれたと改めて思い知り飛び込んだとも取れるのが中文版という解釈になるでしょうか。まあどちらにせよイタズラの前振りにすぎない部分なので解釈はそこまで重要ではないかもしれません。一方で、「だって 最初にみせてくれたのは あなたなんだから…」を最後の1Pに被せるという日本語版独自の演出は、オチをわかりやすくする上でとても効果的で素晴らしいと思います。

なお今回は描き文字の日本語訳に不備が多く、特に気になった箇所のみを以下に挙げさせていただきました。

8Pの変装した少女の平手打ちの描き文字の訳し漏れ

 「啪(発音:パ)」この場合は「パン」。

15Pの水に落ちる時の「ドサっ」

 中文版は「噗嗵(発音:プトン)」この場合は「バシャン」。

17Pの水から上がった時の「シャラ」

 中文版は「哗啦(発音:ファラ)」この場合は「ザバ」。

群青のマグメル第53話感想 ~人のかたち

第53話 代償 24P

追記 原題:巨变手装 (直訳:神の見えざる手)

前回でヨウが自身や世界の真実に関わる記憶に触れ、今回も前半部ではその理解を深めていくものの、読者に対しての詳細の開示は一旦保留とされます。そして常軌を逸した方向へと突き進んでいく状況の露呈こそが、内容の中心となります。

神明阿アススが生きていた上に十八獄中隊の増援が到着するという絶体絶命の状況を限界を超えた能力の覚醒によって一変させる、それ自体は定石と言っていい展開のはずなのですが、描写の鋭さによりむしろ深まる負の感情の方にこの作品の核心が置かれています。まずヨウの伸ばした手から、マグメル深部の何者かの伸ばした手、多数の手のイメージへと続くことで、このヨウの新たな手装の幻想構造であり黒い瞳のヨウのものとして既に提示されている神の見えざる手の覚醒へと読者の期待が収束します。構造物の能力に頼らずとも構造者としての鍛錬により身につけ発揮できるヨウの身体能力も、この時点ではまだ状況を好転させてくれそうなものに映り得ます。

ですが13P目で今回初めて描写される現在のヨウの瞳の絶望と神明阿一族に対する宣言の直截な暴力性により、熱量は禍々しさで塗りつぶされそのまま増大していきます。怯えさえ感じさせる十八獄中隊の一斉攻撃を避け、再び巨大な拳を現すやいなやヨウは隊員の1人をあっさりと肉塊へ変えてしまうのです。驚愕の表情を浮かべたままかたちを失い四散する人体の包み隠しようのない残虐性は、通常ならば少年漫画の主人公にはあまりにもふさわしからぬ生々しい痛みに溢れた描写です。殺した相手がただの群衆の1人としてではなく、各個人の個性の感じられるチームの一員としてデザインされている人物であるのだからなおさらです。直前の場面ではゼロに対しては死んだことを理解しつつもその体をひたすら丁寧に扱おうとしており、その死のもたらす言い表しようのない悲痛が、彼にとって正反対の立場にある者の肉体への正反対な対応となって表れています。そして巨大な拳という馴染んだモチーフに続いて姿を現すのが、30倍に巨大化したヨウの全身なのです。構図の遠近感、隊員の死体を文字通りにゴミとしているかのようなスケール感、目の逸らしようのないヨウの「現実」がそこにあります。巨大化させた鋼刃を、巨大化させた手装ではなく巨大化した自身の手に持ち、血涙を流しながらアススたち神明阿一族をその目で見据えるヨウ。主人公があらゆる意味で尋常ではなくあまつさえ巨大化しているという無茶苦茶にも程がある状況なのですが、それでも計算の行き届いた熱量の上げ方とモチーフの積み重ね方により、異常性の表す痛みが上滑りを感じることなしにまっすぐに響いてきます。人を人として扱わない人を人と見なすことは出来ないという、これまで幾度も繰り返されてきたヨウの怒りもまっすぐに示されます。そう述べるヨウ自身が明らかに人としてのかたちを超えたものと成り果てながらも。

展開の躍動の他方で、今回新たに示された情報も大変に興味を惹かれるものです。ヨウの激闘と同時刻にマグメル深部で特訓していた人影、彼の姿かたちはヨウや拾因と非常に近いもののように思えます。そして摂理を超えた構造の理解を介して現在のヨウと繋がりつつも、自分を理解されるような感覚を味わった理由については具体的な心当たりがないようです。彼は金の瞳のヨウと、ヨウに構造の能力を指導し時間の流れの狂った夢限境界で死亡した拾因に続く、3人目の「ヨウ」なのかもしれません。あの黒い鍵が2本でなく3本存在する謎と関わっている可能性もあります。あるいは彼が実は生きていた黒い瞳のヨウであることもありえます。さらに、彼の居る「遥かのマグメル深部」とは金の瞳のヨウの世界と同一の世界にあるのでしょうか?それとも別の世界にあるのでしょうか?いずれにしろ『群青のマグメル』の世界は黒い瞳のヨウの世界と金の瞳のヨウの世界という単純な2つの並行世界からは出来ていない可能性があります。人影だけでなく共に特訓し会話していた人物の正体も気になるところです。

また、摂理を超える手段、そのために理解する必要のある存在についての情報が示されました。一見簡単そうだということと第51話では他人の理解は不可能だとわざわざ触れられていることから、私がまず思いついたの自分自身の理解でした。複数の個体の同一存在が何らかの理由で存在する『群青のマグメル』の世界ならば、自分自身を理解すれば他の自分を理解することもできてそれによって通常の摂理を超えられるのではないかという仮説です。現実と幻想の両立も、現実構造者の自分と幻想構造者の自分が理解し合い能力を共有できれば可能になるかもしれません。ただ、並行世界間で能力の素質は変わり得るのか、基本的には現実構造者であるヨウの扱える幻想構造の種類が2つと決まっているのは何故なのかといった疑問も残り、謎の本当の解明にはやはり新たな情報を待たなくてはいけないようです。

群青のマグメル第52話感想 ~想い出の中のあなた

第52話 そばにいますから 20P

私たちの知るゼロが一旦は完全に死亡してしまったことが確定し、辛い展開が続きます。しかしやっと世界の謎が明らかになり始め、謎を解明しきって仕組みを利用できればゼロの運命を改変できるかもしれないと考えてみれば、全く光明の見えない状況というわけでもなさそうです。

まずは第30話で三人称視点のナレーションと伴に影絵的な演出によって描写されたヨウの過去の、ヨウの一人称視点での語り直しとなります。ほぼ正体のわかった拾因の姿を想い出の中で描画できるようになったという意味でも、読者が脆い部分まで含めてヨウの性格を理解できるようになっているという意味でも、今だからこそ込められる情感に溢れています。生き延びるのに不自由は無くともずっと独りだったことで抱える虚ろ、幼いヨウは初めて家族ができ満たされてからようやくその虚ろの形を知り、それが寂しさだったことに気が付くのです。ヨウが拾因にマグメルで与えられた「初めて」の重みを知ると、第3話で兄を心配してマグメルを捜索するクリクスにヨウが言った「大事な「初めて」をいただいて申し訳ないね お客さん」という台詞の味わいも変わってきます。この後の展開をわかっているだけに、今は体の弱いクリクスでも探検家になって兄と一緒に「また」マグメルを訪れられるはずだと、次の台詞でヨウが彼なりの不器用な表現で伝えようとしていることにも切なくなってしまいます。

拾因との別離を経て、2人目の家族であるゼロとの想い出の、第42話で明かされた部分の前後の気持ちが描かれます。拾因から与えられることを知ったヨウの「初めて」与える側に立った相手がゼロだというのは宿命的です。人の面倒を見るのを覚えたてなささやかな苦労への苦笑と拾人館を設立し責任を負う立場となったことへの晴れやかな顔を見せるヨウ、おそらく初めてのただただ無邪気なばかりの笑顔を見せるゼロ。子供同士のおままごとのようでありながらも紛れもなく本当の家族である2人の姿が、今はただ儚く思えてしまいます。中文版の「少爷(坊っちゃん)」と「阿零」が、日本語版では「ご主人」と「ゼロ」となり、ご主人とペットの関係に見えてしまうことへのフォローとしての意味が大きそうではありますが、そこからちゃんと上司と部下に変化したという台詞があることで、2人の関係がそれぞれに尊厳を持つ人間と人間の関係だと日本語版でも伝わるようになったのは喜ばしいです。だからこそ今回も回想された第4話のラストシーンのように、人と人とがぬくもりを感じ合うシーンが成立するのです。

そしてある時は値切りの演技として、またある時は周回中のゲームのキャラへのなりきりとして暗示され続けてきたゼロの死がとうとう現実のものとなります。また、これはこの作品の世界の中で本当に繰り返された悲劇でもあるのです。第33話第34話で登場した黒い瞳のヨウと黒髪のゼロ、その死別に続く形で。こちらのゼロと同じく頭を撃ち抜かれながらもヨウの生を願った黒髪のゼロ、突然脳裏にひらめいた彼女のイメージを端緒に広がっていく黒い瞳のヨウ(と本人かその現実構造である拾因)のものとおぼしいの数々の想い出のイメージの奔流に、こちらのヨウは飲み込まれ混乱します。黒髪のゼロに伸ばしても届かなかった黒い瞳のヨウの右手が、両者ともに黒いグローブを付けていることでこちらのヨウの右手にそのまま重なってくる演出は、ヨウの装備を変えた演出意図がよく考えられていることがわかるだけに容赦のなさが恐ろしいです。ゼロの亡骸を左手で抱えながらも、掴み損ねた何かをまだ掴もうとしているように虚空に右手を伸ばし続けるヨウの姿は悲痛としか表しようがありません。「彼」が掴み損ねてしまったのはむこう側のゼロだけでなく、クー、トト、オーフィス、そして何も知らずに自分を慕う幼いこちら側のヨウでもあります。

何はともあれ、これで今まで仄めかされてはいても確証の持てなかった世界の謎、主要キャラクターが全員二重に存在している理由について、具体的に明かされる時がとうとうやってきそうです。とりあえず拾因が第8話で後悔とともに眺めていた紐のついたあの黒い鍵は、黒髪のゼロの元から彼の方へちぎれ飛んできたこの黒い鍵、またはその現実構造でほぼ確定しました。それは第10.5話で古い友人からもらった物としてヨウからゼロに渡された黒い鍵とおそらく同一の鍵です。これだけたびたび文字通りの鍵となる演出がなされているからには、ゼロの死亡の運命を回避するため鍵でもあると信じたいのですが、その予想の正否が判明するまでにはまだ当分待たなければならないようです。さしあたって今は、実は生きていただけでなくまだ残っていた完全構成力で傷口を修復しつつあるアススに対処しなければなりません。血の繋がらない家族であるゼロの死をヨウに突きつけたのが、妻を殺しても何も感じなかったと自認するアススだという情念の絡み合いの妙には、背筋が寒くなるばかりです。それでもまだ大人とは言えないまでも十分に若者と呼べる年頃までに成長したからには、ヨウの運命はヨウ自身で切り開いていかねばならないのでしょう。ただ置いていかれるしかなかった、拾因の想い出の中の幼い子供ではもうないのです。

群青のマグメル第51話感想 ~繰り返す

第51話 零号です 26P

追記 原題:希望和绝望 (直訳:希望と絶望)

ヨウ・ゼロ対アススの激闘の決着のつく回です。大物食いにふさわしい力の入った戦闘描写の詰まった回なのですが、今回の本当の眼目は戦闘終了後の衝撃の展開の方にあります。

冒頭で拾因がヨウに語った命の限界の存在という概念は、ここしばらくの回で主題となっているだけでなく『群青のマグメル』の世界観の根底として繰り返し表され続けています。限界と摂理の絶対性が世界そのものと一体であることと、それ故にその先に進むことを目指す者たち。彼らは神明阿一族であり、「世界の敵」である拾因でもあります。しかし神明阿一族はおそらくいつかのどこかで世界と共に灰燼と化し、拾因はヨウに教えられる程に摂理を超える技を身につけたにも関わらず後悔を抱え続け、そして死を迎えました。彼らは力こそ手に入れたものの本当の意味で摂理を超えることはできなかったのです。

拾因の後継者であるということは、この作品の主人公としてのヨウの根幹をなす役割のひとつです。ヨウはおそらく自覚はなくとも拾因と同一存在の別個体であるだけでなく、自らの意志でも拾因の遺志を受け継ぐことを目指しています。

特に、今回はヨウは知らないのでしょうがかつての拾因(の同一存在?)と同じく自らの現実構造を巨変させる幻想の能力を発揮し、人類の頂点の一人である神明阿アススとの激闘を制することができました。ヨウが得意とする鋼刃と篭手の両方を巨大化させての最強の斬撃には、これまでのヨウの構造の能力のすべてが活かされていて胸が熱くなるものがあります。立ち回りもよく練られていて、まずアススに鋼刃を防御させてから後ろに回り込んで篭手を放ち、あえて躱させて自分たちに向かわさせることで、素通りした篭手にアススの背後の鋼刃を持たせて斬撃を放つという一連の駆け引きはアイディアが詰まっています。

戦闘後の一転してのヨウとゼロの和やかな会話の瞬間でも、2人でのマグメル探険を持ちかけるヨウの言葉には、第33話冒頭での「彼ら」の様子を思い起こさせられます。かつて終わった探険が再び繰り返される予感にほろ苦い思いがするとともに、そのまま2人で邪魔をされずに探険が続くことを祈りたくなり切なくもさせられます。ここで人間との闘いで疲弊しきったヨウが、ほとんどの人間にとっては生死を賭けた鉄火場であるマグメルに憩いを求めようとするのがいつものことながらも興味深いですね。やはり人と関わる道を選びながらも、魂の一端の故郷はマグメルにあり続けるのでしょう。憩いの別天地とは楽園であり、楽園とは死後の世界であるとともに人の故郷でもあるのです。

そして本当に瞬きほどの間の平穏を破り、熱闘さえも平穏さえも前座として飲み込んで起きるのが「ヨウ」にとっての「ゼロ」の喪失の繰り返しです。打ち倒されて注意を外れることで不意打ちでの一撃必殺を狙うという、自分たちの戦法をそのまま返してきたアススからヨウをかばうために、ゼロは撃たれて倒れます。直前までバトルの熱量は申し分ないもののアススという人物の役割がこれで終わるのはもったいないとは感じていましたが、期待の方向を大きく飛び越えて度肝を抜く働きです。第33・34話で黒い瞳のヨウと共にいたゼロの死亡の描写は覚悟していたとはいえ、こちらのゼロまでもが少なくとも一旦は死亡してしまうとは思ってもみませんでした。25P目の直接的な人体破壊描写の赤裸々さにはヨウばかりでなくこちらも当惑し呆然とさせられてしまうのですが、26P目の力を失った体がくずおれて浮遊するようでさえあるコマの生々しさに徐々に実感が追いついていき、決定的な一瞬はすでに過ぎ去ってしまったことをじわじわと納得させられることになります。戦う力に乏しい少女の死というものはどうしようもなく痛々しく、それを目の当たりしたヨウの喪失はどんな言葉を尽くそうとも表しきれるものではないでしょう。
繰り返し、繰り返し思い知らされる無力さとは運命であり、あるいは世界の摂理そのものなのかもしれません。しかしだからこそ拾因の運命を受け継ぐだけでなく乗り越えて、摂理を本当の意味で超えることが主人公であるヨウの役割だと私は考えたいです。拾因が回避できなかったゼロの死亡が、この後の展開でヨウの摂理を超える力により回避し直されるのは間違いないはずなのです。あるいはその方法に辿り着く瞬間が拾因の謎に触れる時なのかもしれません。世界の前進・後退という意味ありげなキーワードが拾因の口から出ている点は見逃せません。また第49話ですでに背面に随机(ランダム)という記載があることから推察できるように、6号の弾の種類がランダムだというギミックは作中での役割を持って設定されている可能性が高く、例えばゼロの死亡の回避後の発砲では別の種類の弾となっていることで運命が変わったことを示唆する…といった演出に期待してみたくなったりもします。ともあれ、繰り返しの強調とは破られるためにあるのだと、今はただ信じるばかりです。

群青のマグメル第50話感想 ~摂理の外そして内

第50話 乱戦 20P

追記 原題:神迹 (直訳:神威の現れ)

尋常の生命の範疇を、そして摂理を超えた擬神構造が前回で神明阿一族の手によって誕生し、常人にとっての脅威ではあろうと摂理の内の生命である怪物たちがそれに怯えて逃げ惑う場面で今回の話の幕が開きます。その怪物たちの王である原皇もまた摂理の内の存在であり、突然の擬神構造の出現に動揺し、珍しく真剣に焦っています。原皇がヨウと同じく既知感を覚えて確認しようとしているということで、擬神構造の正体がなおさらに気になってきます。単なる謎の物体が無造作に提示されるのではなく、こうした取っ掛かりを持たせることで、読者の先の展開に対する興味が牽引されます。

同じく摂理を超える計画の中枢であり正体の不透明な存在であるルシスとの戦闘も並行して進み、こちらでも原皇は焦燥を感じさせられています。短い戦闘描写ながらもここでのルシスのキャラの立ちっぷりは素晴らしいですね。三日月型の構造物を背後にしてのキメキメのポーズの厨二感、構造物の威力、軽く舌を出しての挑発の食えなさ、いずれも強烈な読み応えがあります。ルシスの正体の推察において黒獄小隊の隊長という役職だと原皇が当たりをつけたことから、ここで作品として意味のない言葉を出すとは考えにくいというややメタ的な読み方が前提ではありますが、アミルとルシスの関係は神明阿一族の若様と側近中の側近である黒獄小隊隊長なのだと見てほぼ間違いないでしょう。しかし、原皇自身が推察に確証を持ってはいないように、正体不明の隊長とはルシスなのか、2人のどちらがどちらの立場なのかという点にはまだ疑問の余地が残されています。常人には対抗不可能とされる超級危険生物を端末とした原皇を手玉に取り、魔をはらんだ微笑みを浮かべ挑発するルシス、彼の正体とは何なのでしょうか。また、この場面では挑発を受けた原皇の側も凄みのある反応を見せ、やれっぱなしで終わることに甘んじない意地を感じさせてくれます。原皇という肩書にふさわしくゾクゾクさせてくれる刺激的な台詞と表情です。両者ともに心憎いほどに魅力的で、バトル要素のある作品では対峙する敵キャラの面白さがそのまま作品の面白さに結びつくということを再認識させてくれます。

一方ヨウ・ゼロとアススの戦闘では、ヨウたちは格上の相手に対して自分たちのできることを最大限に活かして必至に食い下がってます。ここでヨウが主人公らしい意地を見せてくれたことは素直に嬉しいですね。危機的状況を新技で打破するという展開にはやはり非常に燃えるものがあります。しかも摂理を超えた野望を抱く一族の上祖を、摂理を超えた構造で迎え撃つというのだからなおさらです。ゼロの6号もやはり完全には壊れてはおらず、この戦闘でしっかりギミックを発揮して活躍してくれるようで楽しみです。三日月型の構造物と一体となって突っ込んでくるアススをヨウたちはどう撃退してくれるのでしょうか。

こうした超人たちの迫力ある戦闘に挟まれつつ対照的な内容となっているのが常人であり尋常の生命に過ぎないトトの描写です。前振りをした切り札である念動結晶を投入し、その薀蓄もきちんとそれらしく考えられたものであり、続いての亡き父との思い出や夢、決意もしっかりと思いが伝わるように仕上げられているにも関わらず、トトの実力では危険ランクの低そうな生物に対してさえ全く歯が立たないのです。コミカルな演出がされているのでそこまで重くはならないのですが、念動結晶にまるで威力がないさまが絶妙な間で何コマも割いて念入りに描写されている流れには、おかしくもありつつ妙に悲しいという諦念にも似た複雑な感情が呼び起こされます。ノーダメージの危険生物さえもリアクションに困っているコマが何というかポイント高いですね。

この場面では、『群青のマグメル』では機転や悪知恵も含めての実力とはその場の気合や気迫だけでは覆しようがないというこれまで幾度も提示されてきた世界観の根底を改めて確認させられることになります。冷血で酷薄で、そして現実的です。それゆえに摂理を超えうる超人たちの特異性が映えますし、戦闘の緊張感に繋がる要素でもあります。とはいえ少年漫画としてはもう少し幻想を見せていくれてもいいのではないかという気分にならなくはないです。ただ、この点は『長安督武司』をはじめとする他の第年秒作品でも繰り返し描写されるテーマであり、作者の熱のこもった思い入れの深さを感じずにはいられない部分なのです。努力では立ち向かいようのない才能の差という現実と挫折、力のために力を求めることへの疑問、それらの問題に対する執拗な拘泥は、第年秒作品ファンとしてはヒリつく刺激を楽しめる持ち味の1つだと感じています。少年漫画としては深みというよりエグみに受け取られかねない部分だけに、今後どう扱っていくのかいう点にはハラハラするものも感じなくはないのですが。もっとも、トトは別に強さに執着しているキャラではないですし、原皇に利用される形とはいえ命を拾った以上は戦闘以外の部分で役割を持てて、最後には後味のよい締めくくりを迎えられるはずです。第年秒先生は癖の強い要素もその場のインパクト狙いだけでなく全体のバランスを考えて組み込める作家ですので、その点は信頼しています。

翻訳について追記

今回の原皇が感じている「ある種の懐かしさ」の説明も、第48話と同様中文版では「熟悉的存在(馴染みのある存在)」です。

何故か 懐かしさを感じるそれに

「なんだ?」

「一体何が現れた?」

 の部分は

某种,熟悉的存在?

「怎么回事?」

「出现了什么?」

 なので、

 ある種の 馴染みのある存在だろうか?

 「どういうこと?」

 「何が現れた?」

となり、現れた物体の正体だけでなくその原因も含めた現象そのものが気になっている感じでしょうか。

ちなみに、この4Pの最下段のコマは日本語では妙に白っぽい風景だけのコマとなっていますが、中文版では

之前从未听说未神明阿除了当家一级之外,

还有这种绝对实力者,

难道他是……

 最上位の当主の他にも神明阿に

 まだこんな絶対的実力者がいるとは聞いていない

 もしや奴こそが

という内容の説明が被さっています。日本語版では最後の一句のみが次のページに移って残されています。

ルシスが実は若様であり現在か次期の当主である可能性が高く、黒獄小隊隊長である可能性の高いアミルが神明阿一族の直系ではないかもしれないことを考えると、なかなかに作者からの示唆に富んだモノローグです。